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【目次】   
「病院医療の崩壊が叫ばれる中で」 
愛知県勤務医師生活協同組合  理事   加藤 林也  
1、病院医療の崩壊は新臨床研修制度が原因か?
 病院医療の崩壊が叫ばれて既に久しい感じがします。病院医療が崩壊した原因について色々なことが述べられていますが、その理由の一つに3年前から始まった新臨床研修制度の導入が挙げられています。
 これまで全国の多くの大学病院では、卒業後直ちに専門領域の研修(のみ)を開始するため、卒業後早期に大学の医局に所属していました。研修医は大学病院での研修と称して、下級医師としての様々な業務に就いていました。しかし、研修医が大学病院以外の施設で研修するため、大学病院では雑用を請け負う研修医が足りなくなり、日常業務にも支障を生じるようになったため、一部の診療科では関連病院に派遣している中堅医師を大学病院に引き上げたそうです。その結果、医師を引き上げられた病院、特に地方の関連病院はたちどころに医師不足に陥ったと言う訳です。新臨床研修制度では研修医は卒業後直ちに自身の進路を決めなくてもよくなった代わりに、一般病院で全科的な臨床研修を義務化されました。内科(6ケ月)や外科(2ケ月)に加えて、救急医療や麻酔科あるいは小児科と産婦人科の他にも精神科や地域医療の現場での研修も必須化されました。研修医は必須科が揃って十分な研修の出来る都市部の大病院へ集中してしまい、大学病院であっても研修医が募集枠に達しない施設が報じられました。研修医が大学病院に集まらないと病院医療が崩壊するのでしょうか? ちなみに、愛知県では大学紛争の産物のように、約30年前から始まった名古屋大学の卒後研修システム(名大方式)では名大病院には研修医がいませんでしたが、少なくとも最近までは県内の病院医療は今日ほど危機的な状況ではなかったように思われます。確かに初期臨床研修医は必須化された診療科が揃っている都市部の大病院を必然的に志向することになってしまったようです。しかし小生は、問題はその後の後期臨床研修にあると思います。市中病院で研修を行っている研修医の多くは、初期研修に引き続いて行う後期臨床研修を、初期研修病院での継続を希望するため、結果として大学病院への帰局がさらに遅れることになります。通算すると卒業後5〜7年間は大学以外の病院、しかも全科が揃っている都市部の大病院での後期研修を希望するため、大学病院には研修医どころか、その後の入局者も減り続けるので、派遣する医師が大学にいないのが現状でしょう。研修医が居ないことがドミノの最初の段階という訳です。


2、病院医療の崩壊は大学医局の無力化が原因か?
 新臨床研修制度での研修医の動向に大きな変化が生じていることは先に述べました。市中病院の研修医でも初期研修終了後に自身の志す専門領域での後期研修を目指して該当科にスタッフとして進むか、あるいは大学の医局に入局していました。しかし、最近では専門領域を特定せず、殊に内科系では内科全般を幅広く後期研修として選択し、早い時期から地域医療あるいは家庭医を目指す研修医が増加しています。これらの研修医は何年たっても大学病院には帰属せず、特に研修病院では小児科や産婦人科を後期研修領域として選択する医師の中には、医師不足の報道から入局したら何処にとばされるか分からない不安から医局に入局しないケースがあると聞きました。大学の小児科や産婦人科の医局が悲鳴を上げているのが聞こえるようです。昨今では研修病院の上級医たちも研修医に専門領域へ進むことを積極的には勧めない風潮があるため、入局者の減少した大学の医局には研修病院から医師の補充が出来なくなり、最早医師不足に悩む病院への医師の派遣どころではなくなってしまいました。愛知県でも奥三河の公的病院が病院医療崩壊の典型例のように報じられています。地方や田舎の病院への赴任は、何時の時代も赴任する医師には大変でした。大学の医局の弊害は言い尽くされていますが、医局が機能しなければ救えない医療があるのも事実でしょう。行政や医師会がそのために機能することは今でも実際には困難で、医師の派遣が商業ベースの民間組織によって支えられるとしたら、この国の病院医療はさらに荒廃する様に思えてなりません。
 地域医療や家庭医と言いながらも、夜間や休日の時間外に診療することを要求されない医師を目指している訳ではないと思いつつ、高度医療を目指す病院勤務医が医療訴訟に最も近い立場に置かれ、過酷な業務に疲弊している現状を若い研修医は敏感に喚ぎ取っているように思えます。医療の分野に市場原理を導入し、勝ち組と負け組みに区分し、負け組には自助努力が足りず、自己責任だと言う論法が大手を振って歩いている今日の日本では、病院医療の崩壊は必然的で、かつ仕組まれたものではないかと思えてなりません

3、病院医療の崩壊を止めるために新臨床研修制度の変更を求める!
 病院医療の再生のために、現在の初期研修を市中病院で行うことを中止し、大学での後期2年間をこの研修に当てることを提案したいと思います。大学の授業は教養課程を廃止すれば、初期の4年間で臨床講義まで終了することは可能でしょうし、大学には教育スタッフが配備されているのだから、初期研修を行うのに適した施設と思えます。教官という教育スタッフに対して予算措置が執られている大学と異なり、一般病院には診療スタッフはいても教育スタッフはいません。市中病院には救急医療や当直業務の戦力になる医師が必要であり、一方では大学での初期研修後に市中病院での後期研修を3年間実施すれば、凡その病院での臨床業務が可能な水準の臨床医が育成できるでしょう。その後は大学に戻り、大学院生を除いて僻地を含めた関連病院での数年間の勤務を義務化するべきと思います。大学医局が医師の派遣機能を早期に回復することが即効性からも強く期待されます。

4、勤務医を疲れさせないために
 勤務医にとって大きなストレスになっている業務の代表的なものに当直があります。多くの中核病院では一次医療から三次医療までを引き受けざるを得ないため、また患者サイドの意識や社会の変化により、夜間や休日の当直業務は以前とは比較にならない程のストレスでしょう。開業医が一次救急に参加したり、様々な試みがなされていますが、勤務医に当直の翌日には勤務の免除を提案します。病院によっては当直明けの朝から勤務を免除することは不可能な施設もあるでしょうが、午後の半日でもよいから勤務を免除して帰宅させるようにすべきです。翌日に通常業務があれば、当直当日は出来るだけ休みたいと思うのが人情です。翌日の勤務を考えれば、夜間の救急患者に対する対応が不十分(不親切だったり、診察の手抜きや検査の省略など)となる可能性が高く、かえって医療事故を生じたり、翌日の通常業務自体にも支障を生じることになりかねません。当直明けに勤務がなければ、夜間に寝られないほど忙しくても、何とか朝まで頑張れるのではないでしょうか。人的余裕がなければ通常業務体制の見直しが必要になりますが、勤務医を守るためには必要不可欠の配慮と思います。勤務医部会に参画しておられる先生方はいずれも病院幹部の方でしょうから、ご自身の施設に当直明けを是非導入して欲しいと思います。米国では当直明け(夜勤明け)にインターンやレジデントなど若い医師の交通事故が増加していると言う報告もあるくらいです。コストは掛りますが、ひとたび医療事故が起これば、病院が払う犠牲は比較になりません。勤務医を疲れさせないために、中堅以上の勤務医を辞めさせない工夫が必要です。勤務医で良かったと思える病院を何とか実現したいと思います。
「Quality of My Life」論 
愛知県勤務医師生活協同組合  理事長 木田 義久 先生  
 本年5月より勤務医生活協同組合の理事長を担当している小牧市民病院副院長の木田義久と申します。微力ながら勤務医生協のために努力致す所存でありますので、よろしく御指導ください。
 さて医学の世界ではよく用いられてきましたQuality of Life(QOL)をすこしもじったQuality of My Life(QOML)なる造語が結構、病院の中でも使われております。文字通り『私の生活を大切に』と言う意味合いになろうかと思います。最近の病院勤務生活もなかなか大変であることを、皆さんが実感されていることと思います。押し寄せる電子化の波、コンピューターに振り回され、キーを打ち間違いしてはまた後戻り、かといっていっこうに減らない紙の山、書類の山も相当なもので、1人の患者さんの入院手続きにかかなければならない書類10数枚などということもしばしばではないでしょうか。また病院の投書箱には苦情の山、待ち時間が長過ぎる!、時間通りでない!、不親切だ!、などなど、また医療安全室は懸案となる訴訟事例への対応におわれるなど全く枚挙にいとまがありません。なんにもましてこの多忙さはなんとしたことでしょうか。診ても診ても一向に減らない外来患者さんの数、はてしなく続く病棟でのムンテラのやま。こうした病院生活のなかで病院に勤務される職員の皆さん、先生方の生活も相当程度、息苦しいものとなっていることは間違いありません。
 20数年前、私がアメリカ、ニューヨークに留学中のこと、論文のことで主任教授に面会を求めたところ、秘書いわく『教授は夏休みで、1か月間アフリカにいっております』。なに1か月!、アフリカ!と驚いたものでした。アメリカでははるか以前からこれくらいの余裕があったということでしょう。ちなみにこの教授Prof.Ransohoffの日常が、夜昼診療、手術、研究に動き回る猛烈脳外科医であったことをかんがえると、それほどに生活のめりはりをつけていたということでしょう。当時の日本人留学生は、よく研究に励んで、論文をいくつも書き上げる等、相当に好評であったとおもっていましたが、よくよく考えてみれば 「余裕のない働き蜂」 のようなもので冷たい視線にさらされていたのかもしれません。
 さてQuality of My Life。近年日本の病院の先生方の夏休みも結構定着して来ました。私どもの病院でも、夏休み1週間を合い言葉にその徹底を図っています。私は夏の伊豆、鎌倉、東京で文字通り汗をかき、サントリーホールでの珠玉のクラシックをはしごして夏休みを楽しんできました。夏休みはほんの1例に過ぎませんが、病院の生活をより快適にするすべはいくつもみつけられると思います。なによりも余裕を持って、かつ意欲的に働ける、そうした環境作りが大切であると考えています。自由きままで、協調性を無視したmy lifeではこまりますが、真の意味でmy life yourlifeを尊重する姿勢は、日本人に欠けた点であり、日本の職場、病院でも同じように欠けた点であろうと思うのです。
 愛知県医師会勤務医部会と、勤務医生協は一体となって活動を展開しておりますが、これからのテーマはいかにして快適な勤務医生活に変換させることができるか。私たちの上におおいかぶさっている重苦しい重圧をいかにして取り払って行くのか、それぞれ具体的なテーマにむかって解決法を求めていきたいものと考えています。従来よりより開かれた形での勤務医部会を模索しておりますので、皆様がたにも積極的に議論に加わっていただき、注文をつけていただくとありがたいと考えます。
クラシック音楽の静かなブーム
愛知県勤務医師生活協同組合  理事 近藤 照夫 先生
 1月28日、久し振りにクラシック音楽を聴きに、豊田市コンサートホールに出かけた。曲目はムソグルスキーの歌劇 「ホヴアーンシチナ」前奏曲「モスクワ河の夜明け」、モーツアルトのピアノ協奏曲「戴冠式」とショスタコーヴイチの交響曲第5番であった。今年はモーツアルト生誕250年、ショスタコーヴイチ生誕100年に当たり、それを記念してのことかと思われたが、パンフレットにはその記載はなかった。指揮者はロシアの気鋭ワレリー・ゲルギエフでオーケストラは彼の率いるマリンスキー歌劇場管弦楽団であった。場内は冗談だが、ロシアの風情を醸し出すためかと思われる程、極めて寒かった。最初の曲ムソグルスキーの前奏曲「モスクワ河の夜明け」は初めて聴いた。綺麗だがウォーミングアップされておらず消化不良気味。モーツアルトのピアノ協奏曲は武骨者が上品な作法でダンスを無理して踊っているような気がした。西ヨーロッパの雰囲気とは違って聴こえた。ロシアの管弦楽団という先入観がそう思わせたのかも知れない。ショスタコーヴイチの交響曲は迫力満点で非常に力強く勇壮であった。完全に自分達の音楽だと主張しているようであった。聴衆の大多数はただただ圧倒されたと思われ、万雷の拍手を送り拍手が鳴り止まなかった。ショスタコーヴイチの交響曲を聴きながら、モーツアルトと違って金管楽器が活躍する場面が多く、19世紀半ばから20世紀にかけてブルックナー、マーラーも多用しているので金管楽器の性能が良くなったためであろうかと私なりに勝手に解釈していた。
 実感として生の演奏は弦の響き、音質が違い、ピアノの鍵盤が出す余韻がCDとは違う。やはり生は良い。私はクラシック音楽に縁のある家庭に育ったわけでなく、子供の頃、隣に住んでいた叔父の家からレコードで聞こえてくるクラシック音楽を聴いていただけであった。クラシック音楽に対しては何の抵抗感もなく、むしろスムーズに音楽が体にスッと入ってきた。
 日本も高度経済成長期に入り、技術の進展に伴いさまざまな家電製品が現れ、テレビに続いて高校の頃と思うがステレオセットも我家にも入ってきた。
 クラシック音楽の教科書的なレコードであるベートーベンの運命とシューベルトの未完成(たぶんブルーノ・ワルター指揮)とチャイコフスキーとメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲−いわゆるメンテヤイ盤−(たぶんアイザック・スターン) など4−5枚が我家にもあった。チャイコフスキー作曲バイオリン協奏曲のノスタルジアを感じさせる美しいメロディーを高校時代の私は何度も聴いた記憶がある。
 大学に入り栄の名曲喫茶へ友達に連れて行かれ、薄暗い室内で大音響のクラシック音楽を聴き、こんな世界があるのかと思い知らされた。今でも名曲喫茶はあるのでしょうか。
 ブラームスの交響曲が流れ、寒い北国を背景に哀愁漂う旋律の中にしっかりとした構造のある音楽が響き、ブラームスが好きになった。フランソワーズ・サガンの「ブラームスはお好き」が映画化され、その映画音楽に交響曲3番が用いられ、ヨーロッパではクラシックが日常なのかと思った。
 レコード屋やレコード芸術という雑誌からレコード番号を写し取り、大学生協に注文しバイトの金を叩いた。生協では確か2割引で買えた。マーラーの耽美なメロディー、ブルックナーのゴシック建築物を思わせるリズムも気に入った。
 医学部を卒業し20年近くクラシック音楽が自分の傍らにほとんどない日々を過ごしていた。たまたまクラシックコンサートのチケットをもらい、妻と2人で金山の市民会館に出かけた。確かベートーベンの交響曲「英雄」であった。オーケストラはフィルファモニア交響楽団と思うが忘れた。それを機会に家でもクラシック音楽を聴こうとしたが、古いステレオ装置は壊れており、世の中はLPでなくCDの時代となっていた。ステレオを買い替え、ぱっぱっとCDを集め始めた。指揮者もカラヤン、ベーム、バーンスタインなどから変わっていた。でも名曲が廉価盤として売っており有難かった。
 以前は交響曲など大がかりなものが好きだったが、今は室内楽が好きになった。いろいろなものを削ぎ落とし、本質に通ずるからなのか。日本人の侘、寂の境地と云わないが、音に対する感受性の純化なのか。それとも年齢とともに必要なものしか受けつけなくなってくる単なる生理的な変化なのだろうか。
 前記したように今年はモーツアルト生誕250年でテレビ、コンサート、CD、本など、いろいろな企画が目白押しである。クラシック音楽のCDも企画品を中心に静かに売り上げを伸ばしている。この忙しい社会の中、さらに競争社会を助長する雰囲気にクラシック音楽に何らかの安らぎを求める人々が増えてきたのかも知れない。
 休みの朝、ベッドの中でモーツアルトの弦楽四重奏曲を微睡みながら聴くことは最高と思う。
 コンサートの帰り、チラシを見ると5月に同じ豊田市コンサートホールでマーラーの交響曲5番を行うとの記事があった。又、行ってみようか。
心に残る患者さんKさんのこと
愛知県勤務医師生活協同組合  理事 塚田 勝比古 先生
 Kさんが慢性C型肝炎で私のところへ診療を受けに来られるようになったのは、かかりつけ医の先生からのご紹介で今から10年前の平成7年からでした。その後かかりつけ医の先生と私のところへ通院加療をしていました。私の所では定期的に精密検査を行い治療はその先生のところで行っていました。
 Kさんは、湯川秀樹博士にも教えを受けたという理論物理学者で、愛知県のT大学の工学部教授をされ、平成8年3月定年退職後はT大学の名誉教授をされておられました。
 お体は小柄で、またお顔はどこまでも柔和であり笑顔が絶えることがなく、定期の検査と診察時にはこちらの話を一言二言かみしめるようにお聞きになり理解される方でした。ご本人はご自身の肝疾患に関して充分理解され、可能であれば根治を、それが出来なければ進行を少しでも遅らせようという熱意が伝わってくる療養生活をされている方であり、病態、年齢などから少しでも進行を遅くする方法を選択され、行っている治療については一言も疑問を言うことなく、その後は毎日の繰り返しの処置をかかりつけ医の先生のところで受けておられました。
 Kさんのご略歴、またそのお仕事については、後から知ったのですが、原子核物理学を学んだ事より、核廃絶、平和問題に関心をもち更に平和運動への活動きっかけは、自らが勤務していたT大学に客員教授として来日し、ご本人自身がB29の戦闘パイロットであった、米国オハイオ大学のオーバービー博士が、広島の原爆資料館を訪れ、その惨状を見、すべての国の憲法に戦争放棄の理念を入れようと湾岸戦争直後に米国で「第9条の会」を設立した、その活動に賛同したことによるものでありました。Kさんは直ちに1991年5月、日本に「第9条の会、事務局」を発足させ代表になられ、その後、奥様と会報の発行や講演会の企画など、積極的に活動を展開している方でした。
 このお仕事に関与されるようになってからKさんは、現在の日本の状況を含め、一日でも長くこの活動に従事していく必要があるという固い信念を持たれ、そのためには、ご自身の健康維持が最も重要であるとお考えになり医療のあらゆる無理な要求も受け入れられたものと思います。日ごろのKさんの療養態度よりその信念の強さを受け取ることができ私は大変感銘を受けていました。
 そのような不断の治療、療養にも関わらず、平成14年2月には肝細胞癌が発生し、その治療選択として最初に内科的治療の肝動脈塞栓術を施行いたしました。以後外来で経過観察を行っていましたが腫瘍の再発を認めたため治療として繰り返しの肝動脈塞栓術、更には、ラジオ波焼灼療法など有効と思われる治療は全て積極的に受けられました。しかし再発した肝細胞痛は予想に反して速く増悪していきました。受けうる事のできる治療は苦痛を伴うものであっても受け入れ治療に専念されたのは、これは一重にKさんの強い信念に裏付けされたものであり、運動のため一日でも長く皆に活動を広めていくためであることが感じられました。その後、肝細胞癌は治療に抵抗し積極的治療を行うことが困難に成っていきました。Kさんはご自身の回復困難な状態を十分理解され最後は自宅でホスピス治療をお受けになられ平成16年6月にお亡くなりになったことを、新聞の記事で知りました。
 私のところには、お亡くなりになる1カ月前頃に最後の診療に見え、自分に対してこれ以上の積極的な治療をすることは無いのですねと、最後のあいさつに受診されたように私には見えました。その時も柔和な態度を変えることなく、取り乱した様子も全く見られませんでした。
 Kさんとの長い診療を通じて私が受取らせて頂いた印象はKさんの療養の基本は強い信念に基づき、その事の成就のために、諏訪市民病院前院長で現在、同病院の顧問をされている鎌田害先生の言う、あきらめない″、しかし 頑張らない″ の気持ちで慢性肝疾患の療養生活を貫かれたものであったと深い感銘を受けました。
 その後、新聞でKさんを偲ぶ会が名古屋市内で開催されることを知り、身をかえりみず出席させて頂きました。私が思っていた通り柔和な遺影が正面に掲げられ、Kさんの蒔いた種は全国に広がり、北海道から沖縄まで代表の方が力強く、先生の意思を継いでいくことを遺影の前で誓っておられました。現状の日本の状態は心残りであったと思いますが、Kさんの祈りにも似た信念は深く浸透していることを強く感じ、またKさんより受けた、やさしさは何よりも強く多くの人に影響を与えるものだと思いました。
 最先端医療でKさんの意思を達成させてあげることが出来なかった心残りを感じながら、本当に素晴らしい生き方を示して頂いたことにありがとうございます″と言う気持ちで一杯でした。
 本年1月23日には「あいち九条の会」結成集会が開かれ大勢の出席者があり、同時に日本全国各地に波及していることを新聞が報道していました。Kさんの意思は確実に根ずいていることを実感させていただきました。

(追記、Kさまのことに付いて文章化することは、ご家族の方にご了解して頂いています。)
私の映画論
愛知県勤務医師生活協同組合  木田 義久 先生
 10年ほどまえのアメリカ映画に「スモーク」という変わった映画があったことを御存じでしょうか。ニューヨークの下町、たしかブルックリンであったと思います。主人公の雑貨屋の主人は町の人たちと触れあう中で、毎日朝8時に店の前の交差点で写真機を構えて店の前の写真をとることを日課にしています。それをアルバムにはって友人とながめているのです。それは退屈な写真が連続していて、かわったものと言えばその日の天気、雨とか風とかがあり、また季節もすこしづつ移り変わっています。しかしながら良く見ていると、そこを通り過ぎていった人もまたうつろっていて、その友人の亡くなった奥さんが映っている事に気が付きます。そういえばあの人もいないし、この人も居なくなった。故郷に帰ったかもしれないし、あるいは亡くなったのかもしれない。大都会の下町の毎日の写真の中でひとがゆっくりとうつろっている事をみつけだしたのでした。その後映画では、ニューヨークに暮すいろんな人たちの親子のさまざま情景を追っていました。

 こうしたささやかな日常をみつめたアメリカ映画は現在全く消滅しています。この頃日本で封切りされるハリウッド映画の特徴を5つあげましょう。(1)映像がとっても美しく、きらびやか、(2)刺激的な場面の連続(爆発、殺人、暴力ほか)、(3)内容がとても単純にして明解、(4)いわゆる荒唐無稽な(ありえない)展開、そして (5)総合的に見て全く馬鹿げている事でしょう。どうしてここまでハリウッドが堕落してしまったのかよくわかりません。ひとつあげられるとすれば映画へのcomputer graphic の導入があげられるでしょう。SFものであればまだそれなりに理解はできるのですが、現代ものにcomputer graphicはにあいません。アメリカ映画に良く見られる単純なわりきりかた、たとえば善か悪か、デモクラシーでなければ独裁などなど枚挙に暇がありません。しかし最も根本的な問題は映画界の徹底し過ぎた商業主義に落ち着くものかもしれません。すなわち観客が見たいものをきらびやかに提供使用とするという姿勢でしょうか。そこには映画芸術としての誇りなど全くなく、単に観客に迎合するだけの代物に成下がっているといえましょう。実際彼等は映画を芸術などとはけして考えてはいません。アカデミー賞の授与式が毎年日本でも大騒ぎされますが、あれはいわばアメリカの国内映画祭に過ぎないものであり、かってに国内で表彰しているだけのことです。実にアメリカ映画の国際的評価はきわめて低いものと思われます。事実ヨーロッパなどの国際映画祭でアメリカ映画が表彰されることはまずありません。唯一賞をうけたのはマイケルムーアの 『華氏911』 であり、これは痛烈にアメリカ批判をしたことがうけたに相違ありません。

 1時代前の事になって、近頃では溝口健二、小津安二郎、黒澤明、木下恵介など、日本映画のいわば黄金時代に活躍された監督の名前がすこし忘れられかけているようで残念に思います。日本人も少なくともほんの少し前にはあれほどのいい映画を作りだしていたことを誇りにしてよいと思います。これらの監督の作品と比べたら現在のハリウッドなど全く問題にもならず、比較する事もおこがましいと私は考えています。有名な話ですが、黒澤明は七人の侍の撮影にあたって、上演時間の短縮をもとめる会社側との交渉で一歩も引かず、その芸術性をまもりぬいたといわれています。とにかく現在においても日本映画がハリウッドに劣るなどという考えは私には全くありません。日本は日本流でよいのであって、悪しきハリウッド流をまねる必要など全くないものと思います。

 昨年11月に韓国に行く機会があり、むこうの脳外科の先生方とお話しする機会が多くありました。その中で日本での韓流ドラマの大人気が話題となりました。韓国の先生方は 「冬のソナタ」が、日本でどうしてそんな人気をはくしているのか理解できない。教えてほしいと言われるのです。私自身はあまり見ていたわけではなかったのですが家族全部がのめり込んでいて、必然的にそのストーリーと場面とを見させられるはめになりました。「冬のソナタ」では二人のすぼらしい主人公に加え、緻密なストーリーの展開が人気の背景にありますが、もっとも大きな事は言葉のやり取りの優しさと美しさ、確かさであり、この点二人の女性によるシナリオ(スクリプト)がすぼらしかったと私は評価しています。韓国は自国の映画、文化を大変大事にまもっているとききます。他国の文化を受け入れるのも大切ですが、自国の文化への思い入れも大切です。馬鹿げた映画をぞろぞろ配給しているハリウッドなどにたよらない、確かな日本映画の確立を切に希望します。そのためには観客である日本人ももう少ししっかりしないといけないように感じます。
ねずみ講
愛知県勤務医師生活協同組合  理事長 宮治 眞 先生
 ねずみ講は連鎖配当組織として法律で禁じられており、物騒である。それにもかかわらず勤務医生協はねずみ講を真似ねばならない。

 いつの間にやら年老いて、愛知県勤務医師生活協同組合の責任者に祭り上げられてしまった。実際の活動といえば名古屋市医師会協同組合におんぶにだっこであるし、とりわけ事務作業は事務局に迷惑のかけどおしである。無責任だが最初からこの場をかりて謝罪しておかねばなるまい。

 しかしながら、たった一回ぽっきり1000円の入会金さえ支払えば、生協加入はけっこうお得な部分がある。年二回発行の 「かわら版」を斜め読みしていただければ理解できるだろう。だがここに落とし穴がある。このニュースだって、「かわら版」だって会員以外は配付されないのだから、ここで宣伝をしてもほとんど無意味だろう。一体生協であれ、医師会であれ、会員を増やすためにどんなプロパカンダをすれば効率的なのか。費用をかけた大々的な宣伝もあるかもしれない。残念ながら、本会にはそれほどの資金がない。頼るのはせいぜい口コミであろう。しかしよく考えてみると、この口コミ法はあなどれない方法だ。会員一人が非会員一人を口説けば、それはねずみ講となる。そしてねずみ講が本当に意味をもつのは、ねずみ講の言葉とは裏腹に本当に儲かることを実証することだろう。ただ生協や医師会において儲かるという言葉は少しいかがわしい。

 本会も今年で創立二〇同年を迎えた。10周年のとき、1994年5月13日(金)名古屋国際ホテルで、大島活京都大学名誉教授を招いて「人間の性…この果てなき変態ぶりよ」という官能的な記念講演をいただいた。しかも入場無料とし市民はもとより薬屋さんも招待した。大いに盛り上がった。情報公開の先駆けだった。
 20周年は今年2004年5月29日(土) 愛知県医師会館で、県下四大学病院の院長をお招きして「卒後臨床研修をめぐって−大学が医師会に求めるもの−」と題したシンポジウムを開催した。県下の病院の研修指導に当たられている先生はもとより、研修医、四大学医学部の学生も招待した。パーティーまで用意したが議論はなかなか盛り上がったが、研修医・医学生の参加はゼロに近かった。ねずみ講が功を奏しなかったのかもしれない。

 冒頭に結構お得な部分がある、前段で本当に儲かること、と記した。もしもこれらのことを、単に経済的な損得だけを指すなら、それは無味乾燥なことだ。儲けるのもう一つの意味は(何かをした結果)有利な立場に立つ、であり、「いち番儲けたのはあいつだ」で例示される。勤務医が有利な立場に立つのが生協であり、医師が有利な立場に立つのが医師会であろう。組織とはそういうものにちがいない。その意味では、意に反するものであれば、生協や医師会に拘泥する必要はない。本会と愛知県医師会の勤務医部会とは表裏一体である。かつての勤務医部会は出席者の確保にも難渋した経緯があるが、最近はそのようなことは全くない。勤務医部会に出席することが、有利な立場に立つことを身をもって実感しているからだろう。勤務医部会への参加は幹事だけだが、生協加入や公開された会は、誰でも参加自由、参画である。ただ一言残念なことは、自分が気付いた良さを他人にも伝えて参画してもらう、ねずみ講の理念?が実行されない白々しさである。

 かつての「連帯を求めて孤立を恐れず」として戦った誤用に残滓があるとすれば無念である。人に伝えても、伝えきれないもどかしさのなかで、連帯を求めて孤立を恐れなかったのだ。垣間見える現況は、良さに気付いた自分は参画する、他人には教えない?伝えない?、それは面倒だからなのか、自分だけが有利な立場に立ちたいからなのか、せこさが透けてみえるように思えてならない。ねずみ講として連帯が風化してしまっている。

 本会は創立30周年に向けて歩き出した。10年後のこの生協ニュースを執筆する責任者は何を書くだろう。10年後への連帯のメッセージが見当たらない、それだけ世相が鬱屈しているのだろう。10年後の少子高齢社会における勤務医は何を求め、どのように生きようとしているのであろうか。病院は縮小再生産なのか。慢性期、長期療養型の施設が主流なのか。間違いないことは男性医師、女性医師の数が同等になっていることあるいは同等近くなっていることだろう・・。にもかかわらず、明日の連帯が問われなければならない。それが現実である。ねずみ講が功を博することができない現況こそが問題だ。

 無限連鎖講であるねずみ講はたしかに法律で禁じられている。しかしねずみ小憎は義賊であり、こと生協加入に関するかぎり、なによりもねずみ鳴きは法に違反しないだろう。魅惑するチュウを発してもらいたいものだ。私達はどうあがいても当分はねずみの嫁入りの呪縛からは逃れえないのだから・・・。
君の趣味は何
愛知県勤務医師生活協同組合  理事  中北 武男 先生
 勤務場所も長くなるにつれ、馴れ合うせいか色々ご用をおおせつかる機会も増えます。その都度快く引き受けるようにしていますが、得手、不得手はいたし方なく、幾度してもうまくゆかないものもあり困ったものです。看護専門学校の卒業式や入学式に実習病院を代表して壇上へ上るのは大の苦手ですが、これは年一回ですからまた我慢もしますが頻繁にあって苦手意識がとれないもの、例えば月曜日の朝礼とか職員の中途採用者面接等はできたらご遠慮させていただきたい筆頭です。朝礼ですから朝早いのは納得しますが、会場が病院の屋上が吹きさらしですから夏はともかく、冬場は辛いものがあります。しかもラジオ体操で体をほぐし、業務連絡がすむと、毎回、参加した皆さんに、ありがたい訓辞を述べなけれはなりません。たかが4、5分の俗を仕入れるのが難儀でつい雨天中止を願ってしまいます。そんな弱腰ですから名古屋の天気が少しでも悪ければ、今日は中止と決め込んで病院が晴れていたりすると言い訳もできません。
 一方、職員入職面接でも新卒者の場合応募する方もそれなりに緊張感をもって望まれますから気持ちが伝わり、時には私の方が初心に帰れて、とても有意義な時間をいただけたと感謝することもあるのですが、それが秋から冬にかけて多発する中途採用の面接は趣意を自分自身十分理解せず、ただ人手不足で因っている現揚の状況を心配するあまり大失敗になることもあります。既に補充が決まったはずの部署から再募集の要請があり、何故かと問い合わすと一日勤務しただけで体調不良を理由に出てこないとのことで 「貴女(男)本当に当院で働く気はあるのですね」と念押しするだけでは人は見抜けないことを再認識しています。友人達はそんなことぐらいでくよくよせず仕事も趣味と思ってやれば気楽にできるのにと元気づけてくれるのですが私にはどうもそのように気軽に振る舞うことができません。才能不足と云ってしまえばそれまでですが、趣味なら他人に迷惑さえ掛けなければ自己満足だけでこと足りるのですが、仕事となれば必ずその成果が要求されます。そんなつまらぬ思いをめぐらしていた時「趣味」について興味ある発見をいたしました。
 それは、当法人で企画室を立ち上げる目的で新卒者ではなく、その道のエキスパートをネットで募集した際のことです。時節柄、100名を越す応募があり、書類選考のすえ14名に絞り込まれました。面接審査にあたるものは履歴書、職務経歴書、自己PR書の3点について、あらかじめ目を通し予備知識を持つように言われ、すべての方の書類を精読したのですが、学歴、職歴、誠に立派な内容で、MBAを取得された方、複数の外国語が堪能な方、企画立案実行成果の数々を記載の方、いずれも優劣つけがたい印象を持ったのでありますが、ただ一点不思議に思えたのは「趣味」の欄が空自ないしは苦いてあっても読書がほとんどで、経歴書、自己PR書と比較してあまりにも貧弱に思えたことでした。当日の面接、ヒヤリングでは、ほとんどが実績の内容に質問が集中しましたが、私は、これは、と思う人に「貴女(男)のご趣味は?」とお聞きしてみました。皆さんほとんどが、実績発表の場でそんなプライベートのことを聞くのは、不愉快だと思われたのか「読書以外は何も」と、二言答えられただけでした。お一人だけ「ゴルフを少しやってましたが・・・そお、趣味とは言えませんが飲みニケーションは得意です」と答えてくれましたので「それは職揚の雰囲気も明るく、柔軟な会話ができたでしょうね」と申し上げたところ「私、以前からアル中ハイマーでして、頭はもともと柔軟です」と誠にへんてこな会話でしたが、私は砂漠の中に突然オアシスを発見した気分を味わえました。しかしよく考えてもみれば実績のある方の募集をかけたのであって、この仕事中心の世の中で、かつ又、スピードも要求される時代に趣味だの何だの悠長なこと言っておれないのが実情なのでしょう。しかも仕事人間とは全く縁遠い私についてさえも才能なきが由に「君の趣味は」と聞かれても即座に返答できないありさまです。それでも座骨神経痛発症までは詳しく言えば1年半前迄は音聞山、富士見ケ丘、興正寺と八事周辺約1時間半の散策で四季折々の変化を愛でることを趣味と自称しておりましたし、又狭い庭ですが木々の手入れからガーデニングなどと酒落たものではありませんが芝の手入れも趣味の内と考えておりました。それが発症以来、長時間歩いた後、芝を刈った後ではボルタレン坐薬の助けをかりなければならないのが辛くて、ついつい縁遠くなってしまいました。だからといって今、必要にせまられて男子寮で作っているスピード晩飯作り(ゆで麺の上にコンビニで求めたイカキムチをのせたキムチうどんとかサトウのご飯を電子レンジで2分間チンして温めたオリエンタル・マースカレー(戦後早くからのインスタントカレー)をぶっかけるレトロの男のカレー等)は所要時間10分と短い上に同じ湯の中で酒の爛付けもできるし、おまけに湯豆腐だって同時にできるし、まさしく一石三鳥ですが、これを趣味といってはあまりにも淋しいものがあります。したがってただ今「趣味作り中」と申し上げておきます。
 けれどもおおむね方向性はかたまりつつありまして、舞台は自宅のキタナイムロ所、演題は「男のイタメシ作り」です。漬し物は期間が神経痛発症後ですからトマトないしはEXVオリーブオイルをベースにしたものにかぎりますが車エビ、イカ、ホタテにエリンギ、ズッキーニを加えたオリジナルブイヤーベースや中身を変えてのミネストローネは最早おまかせ下さい。又、牛肉にしろマグロの赤身にしろカルパッチョは下ごしらえもさることながらEXVオリーブオイルのお値段で美味か否か決まります。それでも白ワインやスプマンテにはよくあいますからただ今夢中です。ただしこれ又結構体力勝負のところがあり腰は大切にしなければなりません。
 もう私が転職用に履歴書を書く機会は皆無でしょうが「君の趣味は何」と聞かれた時「無趣味」と答えるのはいかにも才能なしを認めるようで耐えられないため、即座に「男の手料理」と答えることができるよう残り少なくなった現役期間中に腕前を上げ、企画室に入職した有能な若者達を見返してやらねばなりません。
65才
名古屋港湾福利厚生協会  臨港病院 田邉 克彦 先生
 平成15年8月、今年で65才となった。65才と云う年は何かと社会的に変化のある年になっている様である。私自身、ただの通過点であり、まだ年寄りになったとは思ってもいないし仕事も変りなくやっている。しかし一般的には、大体の社会では定年の最終期であると考えられていて初期高令者と云う事になっている。それで、いつまで院長をやるんですか、なんて聞かれてどうなんでしょう、と答えているが本音は辞めたいが自分では決められない宿命の中にいて本当はどうなるのでしょう。
 と云う事で65才、これをまず感じさせられたのは今年に入り年金の資金運用の説明会の案内だとかマンションの案内が銀行、証券会社、建築会社等から沢山送られて来る様になり電話の誘いも喧しくなって来ています。それで65才より年金が貰えるのかと思いますが正式な話は開いていません。家人は、まだ働いているのに本当に貰えるのなんて聞きますが私本人も何も分っていないのが実状です。
 そして次に生命保険です。いよいよ満期になります。今後どうしますか、との通知を貰い、あ、これで私の命も保障なしの年令になったのだと感じる様になり、又、家人、あんたが死んだ方が得をしたの、それとも生きていて得をしたのなどと、訳の分らない会話となり説明書を読みやっぱり事故死して呉れたら一番儲けたのにと、自分勝手な話になって来て私の命の値段が下落した年となった65才、これ又大変な事です。と云っても私の生命保険は、設立当時に入ったMPI保険一つだけですが、払い続けて長かったか短かかったかちょっとは小使いも頂いてサヨナラとなってしまった。
 そしていよいよ本題の65才です。敬老パス、これは名古屋市だけの特典で他の都市と地域では大体が70才以上、75才の所もあるそうですが名古屋市だけが65才、最近は新聞やその他マスコミでも問題視されていて特集まで出ています。大体に反対論が多く何となくむずがゆくなる制度です。
 じゃあ貰わなければ良いじゃないかと云われればそれはそれで良いのでしょうが、これが又難しく格好付けになってしまう。まあそう云う訳で7月末にハガキがまいりました。このハガキと印鑑を持って8月1日以后に区役所に来て下さいとの事。実は病院もこれを見越して通勤定期券を7月末までしか用意してなく8月からの交通費も無しにしますから敬老パスを貰って今后それで通勤願いますと云われれば、いや、それなら自費でと云っても一日往復千円はかかる。やはりタダの方が良いと云う事になる。
 そこで8月1日、区役所に出掛ける事とした。窓口に行きますと中年の女性、まずはお掛け下さい、御苦労様ですと非常に親切、ハガキと印鑑を受け取りくだんの敬老パスと敬老手帳そして説明書を出し丁寧に御説明頂きましたが聞いていると完全に年寄相手に話す話し方、なんとなく私も急に年を取って年寄りになった気分でハイハイと答えなければならない雰囲気、その上介護保険の事まで丁寧に説明を受けお気をつけてお帰り下さいと区役所を出たが急に老け込んだ気分、あゝ65才。
 ところでこの敬老パス、正確には敬老特別乗車券と言い名古屋市の市バス、地下鉄どれだけどこまで乗っても無料となっていてただ地下鉄の改札口を通る時、黄色いランプが点く度、老人だな(タダ乗りだな)と分ってしまう仕組となっている。したがって、名古屋市の65才以上の人達は元気な人は勿論、少し動きが困難になってもこのパスを使って朝から晩まで動いていらっしゃる。これは若い人、私も今までそうだったが老人は暇で金を持っていてよく頑張っているなあと感心し、一方でタダだからズウズウしく出廻っているわいと思っていた。又、これを使っている老人によると、バスの運転手さんの中には露骨に嫌な態度を取るのが居てタダの客がと云われているみたいでバスにはあまり乗らないとの話も聞いたが私はまだその様な目にはあっていない。
 しかし本当は交通局にはこの敬老バス代として年間138億円の金が健康福祉局から入っているそうで交通局としては今の経営難の時代、大変助かっているとの事である。勿論、健康福祉局のお金は我々の税金である。
 そして名古屋市には65才以上の人が37万4千人ぐらい居るそうだ。その内の何割になるか知らないがこの敬老パスを使って街中に出て行ってデパートや地下街等で何らかの買物をする。又飲食店でお金を使っている事となりその経済効果は他の地域に比べると大分大きな違いがあると云う人もいる。平日の昼、栄の地下街、デパートに行ってみると大半は老人だとの事である。そうなると日本一ケチと云われている名古屋もこの事で少しは助かっているのだろうか。
 そして敬老手帳、これが又又ありがたい手帳であって写真を張って示せば葵の御紋、名古屋市立の施設、市民病院は駄目だけど、動植物園、美術館、ポートビル等々、さっとお通りさせていただけるとの事、水族館は半官だから半額にして下さる。本当にありがたい手形である。そして介護保険に関して詳しく書いてある。しかし区役所の人は早く介護保険をもらって下さいとは云わなかったが介護保険の支払いの事だけは丁寧に、しかもしっかり説明して下さった。
 本当に名古屋市は老人には天国にみえて来る。本山さんよありがとう、と云いたいところだが、よくよく考えてみると、いや、そんなに考えなくても分る事、これ全部名古屋市民の税金なのだ。この御時勢、これでは市の財政もどうにもならないだろうと思うと、やはり今問題になって来た様に段々年令を上げていつかは無くなる運命か。
 お前はもらい出したから、そんな呑気な事を書いているが、若い者の身にもなってくれ、これじゃ損ばかりしているのは若い者ばかりじゃないか、と声が聞こえてくるが私もたまたま今年が65才、こうなっただから、そうなると、流れに乗って行くしかないんだと、開き直って死ぬまで生きて行く事といたします。

秋入りて今の世の中想いつつ
65才老か若いか
酔猿
婦長さん
愛知県勤務医師生活協同組合  専務理事 宮治 眞 先生
 2003年3月3日現在、彼女はまだ充分に健在である。だから前代未聞の不謹慎は承知のうえである。
 かつて加藤周一がたしか朝日新聞の夕陽妄語において、伊豆半島の片隅で亡くなった友人のことを記していた。友人は決して有名な人ではなく、まさに一市井の人であったようだ。しかし彼ほどの人がその死を屡々書き連ねるほどの人であるから、きっと一角の人であったのであろう。もとより加藤周一やその友人と比べるべくもないが、人はだれしも自分にとってかけがえのない人の死を経験する。肉親、恩師、友人などではなく、ある偶然によって引き合わされた人のこともある。
 そう師長さんではなく、いままで通り、それが相応しいから、婦長さんと呼ぼう。私が医師になってすぐのこと、初めての胸水穿刺を行う羽目になった。一通りの予習くらいはしていたが、指導医は不在で婦長さんが付き添ってくれた。当時の新米医師にとって婦長は怖い存在であり、正直、技術のまずさで、厭味のひとつもいわれるのではないか、と不安一杯であった。ところが婦長さんは新米医師の私に恥をかかせまいと、医師としての威厳を保たせつつ、事の運びをまことにスムースに、針を刺す部位にも、次の動作への段取りも、自然に手が動くように配慮、誘導してくれた。言葉で言い尽くせない鮮明な出会いであった。
 その後、大学病院の、看護教育の仲間として接していた。婦長さんの定年後のいつのころからか、私の外来を通院するようになるとともに、私が関わるいくつかの研究会やボランティア活動などにもお誘いした。知らず知らずのうちに、新米医師に示された婦長さんの源流を学ぼうとしていたようだ。月に一回、私の外来を受診していたにもかかわらず、、迂閥にも不手際もあり、不治の病に侵された。病のことは全部お話した。私の最後のこの世における御奉公として、できるかぎりのことをしようと密かに誓った。端的には婦長さんの葬儀は私の自宅から出すこともやぶさかでない、と腹を括った。かつて無頼な生活を送っていたころ、橋の下に住んでいたホームレスを自宅に引き込んだり、天涯孤独の患者の身元引受人になった経験を思えば、まだやさしい覚悟だ。私の年令を考えると、最後の三人目の御奉公だ。
 婦長さんに贈った送別は上田三四五著「この世 この生−西行・良寛・明恵・道元−」。私はこの本を三冊買ってあり、私用の一冊と、残る二冊は私がこの世で感じた人への挽歌として贈ろうと秘蔵している。婦長さんはもっておられた。しかし、西行・良寛・明恵・道元のだれを目指しているかは不明であった。私は婦長さんの出自を全くといっていいほど知らない。臨床医として三十四、五年、いろいろの死を見つめてきたし、出会ってきた。ホームレスは自殺されてしまい、天涯孤独の患者は貯金通帳を国に返し、葬儀では頭を下げただけだった。挽歌にはほど遠かった。
 婦長さんはこれを記しているいま現在は屈託なく生活している。痛みの少ないことはさいわいだが、しかし心のうちを推し量ることはできない。「桜は見られるかな」との呟きのなかに、苦悩を垣間見る。「先生、言いにくいでしょうが、あとどれくらいもちますか」当然すぎるほどの単刀直入な問いかけだ。医師が学ばなければならない、悪い情報の知らせ方、が脳裏を掠める。この領域の学問は婦長さんの方が造詣が深い。「うまくいけば、年単位かなあ、そうね、悪いとまことに残念だけれど、月単位かな・・・」いま現在の平穏な病態からはとても想像できない時間単位である。受け入れられているようで、受け入れがたい死であろう。冒頭に不謹慎と称したのは、この稿が発刊されるころ、多分、婦長さんは彼岸からこの稿をみていることになってしまっているのだろうか・・・。生は過酷だ。
 実をいうと、婦長さんとの長い付き合いのなかで、私の新米医師のときのエピソードは婦長さんに話したことはない。いまこの挽歌において、初めて吐露するものである。語らずにはおられない引き合わされたひとりの婦長さん。

奇蹟を念じつつ・・・
明日は
生きて
この世にはいない
という
世の習わし
杞憂?
愛知県勤務医師生活協同組合  監事  今井 邦之 先生
 ご存知の方も多いと思いますが、杞憂とは、古代中国に杞という国があって、そこの住人が天が落ちてくるのではないか″と不安と心配で寝食も出来ない程であったという話で、その意味はあり得ないこと、起こり得ないことに取り越し苦労をする意味で用いられている。近年、メディアが地球温暖化、産業廃棄物等の地球環境悪化の報道を多く取り上げている。勤務医生活協同組合ニュースからの依頼を、日頃、思っていることを書いて責を果たすこととする。しかし以下のようなことを書くから自分自身が環境問題を考えて人畜無害の生活をしているわけではないことを最初にお断りしておく。
 地球の歴史は46億年と云われている。46億年もの長い時間をかけて、太陽エネルギーを利用して現在の地球上の動植物の生命が維持できる環境にとなってきた。そして人類は生命体としては最後に誕生したが、知的生命体として生物界の頂点に君臨して、その欲望を満たすために科学文明を発展させている。非常に長い長い時間をかけて、太陽エネルギーを貯めこんだ植物、それを飼料にする動物と共に有害物質を地中深くに呑み込んで、人類が生活出来るように環境を整備してきたのに、無限の欲望のかたまりである人類は、植物と違って、太陽エネルギー、炭酸ガス等を利用して生命を維持できないくせに、化石燃料を掘り起こして、地球の歴史からすると一千万分の一の時間(数百年)で消費し尽くしてしまいそうである。
 その当然の報いとして、地球上では炭酸ガス増加による温暖化、フロンガスによるオゾン層の破壊、環境ホルモン(種なしブドウなどを作った報いか?)など有害物質で生活環境は破壊への一方通行の道に入りこんでいる。
 変化は目にははっきりとは見えないが、東海地方でも経験した集中豪雨、最近ではヨーロッパ、中国での集中豪雨による大洪水、極地の氷棚の崩壊、ヒマラヤ山脈の氷河の後退などは炭酸ガスの過剰による温暖化の現象で、旧約聖書のノアの方舟を思い出させる。事実、インド洋や太平洋上の島々では消滅の危機にあり、住民の移住を計画している島もある。森林を破壊する酸性雨問題も深刻である。ジュースやお茶のためにカン、プラスチック製品の氾濫もある。30年ほど前にヨーロッパ生活した時にエヴィアン、ヴィッテル等のプラスチックボトルの飲料水がスーパーに山積みしてあるのを見て、水はタダの日本からは考えられないことでびっくりしたことを覚えている。しかし現代の日本でも、要か不要か知らないが、同じ様になってしまっている。
 人類のあくなき豊かさの追求や過度の物質文明の発展がもたらすかも知れない破壊、飢餓は、極めて深刻で、地球親槙ですすみ、おそらく不可逆的な変化であろう。
 人類も地球環境の破壊に手をこまねいて傍観しているだけでなく、太陽光発電、風力発電、古紙再生利用や資源の再利用、植物、ガソリンに代わる燃料の開発などがほそぼそと始まったところであり、これらを地球全体に広げて、やはり人類は万物の霊長であることを示す義務がある。幸いに、先年、京都に世界の賢人が会合して、地球環境のこれ以上の悪化の防止、再生循環社会の確立などを討議して京都議定書を纏め上げている。しかし炭酸ガスを国家間で売買できるとしていることは頂けない。一人一人の人間が一度進歩の足を止めて、ゆっくりと考え、少々の不満や不便も甘受し、ゆとりのある心を持った社会として、次の世代へと受け継いで行かなければならない。
 いまの我々が地球上の生物が絶滅してしまうのではと不安を感じ、心配していることを、千年、二千年後の人類が杞憂(というかどうか判らないが)だったと笑い話にするようにしなくてはならない。
ゴルフあれこれ
愛知県勤務医師生活協同組合  理事  岩井 克殷 先生
 日本にはじめてゴルフ場が出来てから、丁度100年になる。1901年(明治34年)神戸に住んでいた英国商人アーサー・グルーム氏が、六甲山に四ホールを造ったのが始まりで、二年後の1903年に九ホールに拡張され、神戸ゴルフ倶楽部として誕生した。これが日本に最初に出来たゴルフクラブである。(西村貫一氏・日本ゴルフ史より)
 最初は神戸の英国商人が中心の遊びとしてはじまったゴルフではあるが、1914年には東京ゴルフ倶楽部が、1920年には鳴尾ゴルフ倶楽部が、1922年には保土ヶ谷ゴルフ倶楽部ができた。その後茨城、宝塚、小樽、川奈と次々にゴルフ場が出来、この近くでは1929年(昭和四年)名古屋ゴルフ倶楽部和合コースが出来ている。このようにしてゴルフは大正から昭和にかけてしだいに日本人の、主に上流階級の遊びとして広まって行った。
 しかし、第二次世界大戦中は閉鎖されたり、戦後はしばらく米軍に接収されたりした時代があったが、その後日本経済の発展とともに、ゴルフを楽しむ人も次第に増加して行った。
 そして、現在のようにゴルフが盛んになる最初のきっかけは、昭和32年国別対抗戦であるカナダカップの第五回大会が霞ヶ関ccで開催され、そのとき日本の中村寅吉、小野光一プロのチームが強豪と云われたアメリカチーム(サム・スニード、ジミー・ディマレ)を破って優勝したことから始まったと云われている。
 私がゴルフを始めたのは、昭和47年、現在の病院に赴任してからである。そのころは漸くゴルフが盛んになりかけた時代であった。一時はかなり熱中したこともあり、腕前もそれなりに上達した。ホームコースも持つことが出来、昭和六一年にはハンディキャップ10までになった。その後、仕事も忙しくなり、もともと才能もなく、現在もそのままである。
 ゴルフを始めたころは、1番から9番までアウトコースを順調にプレイし、僅かな休憩をした後、10番から18番までインコースを廻り、キッチリ四時間で終わった。ささやかなパーティをしても、午後の早い時間に帰宅できた。およそ七〜八キロメートルの野山を歩き、スポーツを楽しんだと言う適度な疲労感とある種の爽快感があった。
 その後はバブル期の到来である。今日本におよそ2500のゴルフ場があるそうだが、山を削り谷を埋め、短期間によくこれだけのゴルフ場が出来たものである。そして次々と新しいコースがオープンした。なかには高級リゾートホテルを思わせる豪華なクラブハウスを造り、従業員を大勢雇い、至れりつくせりのサービスをするゴルフ場も現れた。当然コストはプレイ代に跳ね返り、土日祝日には、三万円を越すところも出てきた。それでも接待ゴルフなどが増え、ゴルフ人口は爆発的に急増し、一時期2000万人にも達したそうである。そのため、プレイの進行は遅れに遅れ、ハーフ三時間プレイはざらになり、本来ゴルフはアウトからスタートするべきだと思っているが、インスタートになったり、ハーフを終わって一時間待ち、二時間待ちは珍しくなくなった。こうなると、丁度昼どさにもなり豪華なクラブハウスでたっぷりと昼食をすることになり、その上ビールなぞ飲んで小宴会が始まってしまう。これではとても緊張感のあるゴルフなど出来なくなり、全くレジャー感覚で一日が終るとになる。こうなっては「ゴルフはイギリスで発明され、アメリカで発展し、日本で堕落した」と陰口を云われても仕方あるまい。
 最近は国外でゴルフを楽しまれる方も多いと思うが、日本のゴルフ場とはかなりの違いがある。
 まず、日本とは比較にならないくらい安価である。私はハワイ、グアム、オーストラリア、ニュージーランドぐらいしか、プレイしてないが、いずれも貸しクラブ、貸し靴、個人用カート付きで数千円であった。キャディ無しで、そのかわりコースのレイアウトが詳しく書いてあるスコアカードを渡される。どこのゴルフ場も、フェアウェイはよく整備され、グリーンもよく手入れされていた。クラブハウスは、お世辞にも豪華とは縁遠い建物が多く、軽食とコーヒーショップがあるくらいで、ロッカールームも粗末なもの、風呂もシャワーのみのところが多かった。これで充分である。家内と二人でのんびりと楽しんできた。
 さて、ゴルフは世界共通のルールで行うスポーツであり、そのゴルフ用語は万国共通かと思いきや、結構和製英語が多くて、外国でプレイするときは気を付けなければいけない。例えば、ロングホールとかショートホールとか云っているけれど正しくはパー5ホールとかパー3ホールとか云わないといけない。ロングホールとはただ長いホールという意味にすぎないからだ。ミドルホールという言葉は全く存在しない。ましてやサービスホールなどとは何かプレゼントでもしてくれるホールの意味になってしまう。易しいホールの意味で使うならイージーホールと云うべきである。私のハンディキャップは10のままだが、もしハンディ9の人が私はシングルゴルファーだと胸をはって叫んでみても、単に「独身なのか」と思われるだけかも知れない。正しくはシングルハンディキャッパーと云うべきだ。
 もし皆さんが素敵な外人とゴルフをされ、よい結果が出たとする。そこで今日はよきパートナーに恵まれまして、などとスピーチしたらブン殴られるかも知れない。よきfellow competitiorに恵まれましてと云うべきである。
 さて、ここ2〜3年はゴルフ場の様相が一変した。日曜祝日はそれなりに賑わっているが、それ以外の日は激減してしまった。お陰でかねて念願のアウトスタートハーフ二時間のプレイが出来るようになってきた。誠にご同慶の至りである。
「ものづくり」と「ことづくり」と「ひとづくり」と
愛知県勤務医師生活協同組合  理事  宮治 眞 先生
 医師になって30年にもなると、診療以外のことに携わらざるをえない場面も多い。個人の性格もあろうが、私などなんでも手をだしてやろうという浮気の性質だから、ある意味では始末が悪い。配付される多くの資料のみならず、頭のなかの整理もこんがらがってしまい、結局、なにを目指し、なにをどうしようかが、暖味になってしまう。この生協もその一つだろう。なにか統合的な概念がないと空中分解してしまいそうだ。
★   ★
 最近一寸ばかり興味をもって取り組んでいる仕事?が環境共生なるものである。愛知県の話題からいえば、首都機能移転問題、愛知万博などであるし、日々の診療に別していえば、本学の新病院建築などがある。病院は社会的公共福祉施設だから、万博ほどの環境アセスメントは必要ないかもしれないが、それでも日照権、電波障害、あるいは窓から家のなかが覗かれるなど、10年20年前には、これほどになるとは想像もつかなかった問題提起がある。病院を建てるにも住民参加が要請され、経営学の言葉でいうステーク・ホルダー・アプローチがキーワードとなっている。箱物行政といわれる「ものづくり」は近年とみに評判が芳しくない。たしかにあちこちの事例をつぶさにみると、当然かもしれない。それにもかかわらず、いま一つ納得しがたい面もある。社会は「ものづくり」なしには存在しえないのだから。
★   ★
 「ものづくり」は「ものづくり」のみに終始して、折角作った箱物に「ことづくり」が入っていない。つまり仕組み作りがなされていない。「ことづくり」にのみ終始した典型は官僚制度であり、端的には保険の療養担当規則である。「ひとづくり」にのみこだわったそれは旧帝大にみられる雨漏りのする研究室であろう。そこに問題がある。箱物づくりで失敗したなら、その失敗した原因を仕組みとして二度と同じ過ちを犯さないようにすれば良い。その仕組みづくりができない。それでは批判を受けるのは当然かもしれない。ごく常識的に考えれば、「ものづくり」の前提として、そのものがどのように、運営、運用され、維持され、そのうえで評価が下される仕組みが予め組み込まれていなければならない。それが 「ことづくり」である。「ことづくり」があって初めて「ものづくり」 は意味をなす。身の程知らずのものを作ってしまっては、にっちもさっちもいかない。社会は「ことづくり」なしには機能しえない。
★   ★
 さらにまずいことは、そこで育つべき「ひとづくり」ができていない。二重の意味で失敗する。「ものづくり」も「ことづくり」も二度と同じ過ちを犯さないことを自覚したひとを活用したがらない。どうも理解に苦しむ現象である。最初から完成した 「ひとづくり」などなかろう。「ものづくり」「ことづくり」における「ひとづくり」とは、その「ものづくり」「ことづくり」に長けたひとを意味しない。「ものづくり」と「ことづくり」とを鳥瞰できるひとで、なおかつ異なる視点をもてるようなひとであるべきであろう。このような「ひとづくり」こそ長い年月のなかで、試行錯誤しながら、その「ものづくり」「ことづくり」にふさわしい人物を育て上げていくべきだ。社会は「ひとづくり」なしには人間社会にはなりえないのだ。最初に箱物行政ありとは思わないが、「ものづくり」自体は大切な概念で、それを「ことづくり」である仕組みに応用ができないこと、そして「ひとづくり」に生かせないことが、「ものづくり」に終始する最大の欠点ではないか。だとすれば、「ことづくり」あるいは「ひとづくり」を優先して、「ものづくり」を後回しにすれば良い。「ものづくり」「ことづくり」「ひとづくり」はお互いに対等に「と」で結ばれていて、一種のウロボヌスの世界を形成しているはずである。「ものづくり」「ことづくり」「ひとづくり」三位一体論といえるかもしれない。
★   ★
 翻って生協をみてみよう。まさに最初に「ことづくり」があって、いつのまにやら「ひとづくり」ができて、名古屋市医師会協同組合の建物「ものづくり」ができたのだろう。世の中、もう少しこの生協の手順を見習ったらどうか。でも、もしも生協が、「ひとづくり」「ことづくり」を棚上げして、立派な建物「ものづくり」 に邁進してしまうと、きっと破滅の道を歩むに違いない。あるいは「ひとづくり」「ことづくり」がいつのまにやら、抜け落ちてしまっていると、これまた危険である。「と」で結ばれた三者が対等にうまく噛み合っていくことが、生協にとっても要諦であろう。
★   ★
 うまい統合的概念ができたものだと自画自賛できたのだが、やはり落とし穴がある。愛知県勤務医師生活協同組合は名古屋市医師会協同組合におんぶしており、とても「と」で結ばれた対等性が保持できていない。ひたすら謝々であり、一つ誤ると、空中分解しそうな統合的概念であることを銘記しておこう。
高齢者医療を考える
愛知県勤務医師生活協同組合  理事  鈴木 敏行 先生
 我国の国民総医療費は、年々1兆円ずつ増加し、1999年には30兆円を超えると推定されています。この医
療費の増加は、急速に進む高齢化社会が主たる要因と考えられ、老人医療費が全体の40%を占める状況となっています。世界一の長寿国である日本の高齢者人口は、2025年には25%になると予測され、医療費の増加はさらに進行すると考えられます。一方、医療費の多くを賄っている保険料収入は、バブル経済の崩壊を境に伸び悩みが続き、収入と支出の均衡を保つことが出来なくなり、根本的な対策が必要となってきました。
 厚生省は、保険料率のアップ、患者負担の増額、薬価基準の切り下げ、長期入院の抑制など収支バランスの改善に加えて、急性期病院・慢性期病院・老人保健施設等の各医療施設の機能分担の推進、各種疾患群における医療費の定額化、プライマリーケアを中心とした家庭医による在宅医療の推進、介護保険制度の導入による医療と福祉の包括化等、様々な医療制度改革を進めています。これらの改革が、国民の健康を、守るための改革か、単に医療費を抑制するためだけの改悪かは論議のあるところですが、これからの高齢化社会を考えると、医師は病気を治すという考え方だけでなく、患者の社会的背景とQOLを考慮し、医療と福祉を包括した分野にも眼を向ける必要があります。特に介護保険制度の導入は、国民皆保険制度導入に匹敵する制度改革で、21世紀の医療・福祉は大きく変貌すると考えられます。
 私は昨年、福祉の先進国といわれる北欧の施設を視察する機会を得ました。北欧の医療は、ホームドクター(general phisicial ,special phisician)と県が運営する病院で行われています。外来医療および在宅医療はホームドクターが行ない、病院は入院医療に専念しており、病院の外来は、ホームドクターからの紹介患者、救急患者、退院後に特別な医療を要する患者に限られています。すなわち、国民は居住地のホームドクターの診察をうけ、その後必要に応じて他のspecial phisicianまたは病院を紹介されることになり、最初から病院も選択の範囲に入っている日本とは異なっています。また、病院も急性期医療、リハビリ医療、術後医療、ホスピス、老人医療(?)と機能分担が図られており、患者は病状に応じて転院することになります。従って、各病院における平均在院日数は4〜10日と短く、在院日数が30日である日本の自己完結型医療とは異なっています。
 北欧の高齢者福祉は、在宅介護または施設介護で行なわれ、その費用は全て市費で賄われています。在宅介護か施設介護かの選択は、個人の希望を尊重しながら、市の介護判定委員が決めています。ナーシングホーム(特別養護老人ホーム)、老人ホーム、サービスハウス(ケアハウス)、ディケアセンター等の福祉施設は市で運営されており、夫々の施設は入所者個人の生活の延長との考えから原則として全て個室となっています。居室には、バス、トイレ、ベッドおよびミニキッチンが設置されているが、家具、調度品は入所者が今まで使用していたものを搬入し、生活環境の変化が入所前と大きくならないように努めています。すなわち、これらの施設は入所者の最終の居宅と位置付けられています。又、施設の職員による入所者に対する介護は、入所者の残存機能を可能な限り引き出し、援助は必要最小限にとどめており、自立した快適な生活を過ごしています。しかし、北欧でも最近の世界経済の悪化、高齢化の進行に伴って福祉施設の供給が不足気味となり、施設介護は障害の程度が重く、医療依存度の高い人に限られ、在宅介護の対象者が増加しています。在宅介護は必要な場合には、住宅改造を行ない、24時間体制の訪問看護あるいは訪問ヘルパーの援助が行なわれています。日本における在宅介護は自宅に肉親の介護人がいる場合がほとんどですが、北欧では、親、子、孫が同居する3世代家族はほとんどみられず、独居老人あるいは老夫婦家庭での在宅介護が行なわれています。日本でも核家族化が進んでおり、老人世帯への対策が必要となります。
 平成12年4月に導入される介護保険制度が単なる高齢化社会の進行に伴う医療費を抑制するための制度でなく、高齢者のニーズに対応出来る体制を医療と介護の両者が協力して造る必要があります。より良い医療と介護の供給をするためには、高齢者も国民もある程度の負担増も仕方ないことと考えます。介護保険をより良い制度にするためには、適正な介護度の認定と介護支援専門員の役割が大切です。北欧の介護判定委員は市の職員であり、各種の介護提供施設も市営であるが、日本では、医療または福祉提供施設は設立母体が異なっており、介護支援専門員と利用者の希望する介護計画がスムーズにいかないこともあると予測され、地域における医療と介護の密接な協力が必要となります。一方、介護認定により除外された超高齢者または社会的要因により在宅が困難な高齢者への対策も重要な課題になると思われます。
 私が勤務する刈谷総合病院を運営する医療法人豊田会では、保健・医療・福祉の輪をひろげます=@の理念に基づき、救急患者のための入院ベッドを確保するため、又、自宅で療養したいという患者の要望により、1994年刈谷訪問看護ステーションを開設し、地域医師会の先生方、刈谷総合病院内科医師、訪問看護婦の連携による24時間態勢の在宅医療を推進し、約130名の患者が利用しています。在宅医療は患者にとって望ましい姿ですが、介護にあたる家族の負担は大変なものになります。在宅介護に携わる家族への支援と、退院前の生活リハビリを目的として1999年1月に老人保健施設ハビリス一ツ木(入所100床、通所30名)をオープンし、2000年4月に長期療養型病床東分院(100床)を開設、さらに刈谷地区の住民が求める福祉施設の設立を模索しています。1990年1月に70名/日のドックを行なう健診センターを設置しており、文字どおり保健・医療・福祉複合体を構築しています。複合体は利用者の選択の幅を狭くするとの非難もありますが、設立母体の異なる医療福祉提供施設の中で困惑する介護支援専門員の苦渋を考えると利用者にとっても良いシステムになると考えます。
 21世紀の医療、福祉は大きく変貌すると思われます。地域診療所、病院、行政がお互いの立場を理解し、協力してより良い高齢者の医療・介護システムを構築することが肝要です。
「病院総合案内」
愛知県勤務医師生活協同組合  理事  妹尾 知巳 先生
 最近とみに医療トラブルが多くなってきたような気がする。県医師会の紛争委員会でもその件数の増加がいわれている。当院の総合案内の受付けにも色々な苦情が持ち込まれるようになった。
 今までの当院の案内は新患受け付けや会計などと同じカウンターの一角で事務職員が対応していたが、受診料の選定や検査、薬の問い合わせなどある程度専門的知識が必要との判断で正面玄関の真ん前にかなり確りしたカウンターボックスを設置してベテランの副総婦長クラスを配した、そんな総合案内にいつの頃からかボランティアの方がいつも2人ついてくれるようになった。正面玄関の二重になった大ガラスを透して、車の乗り降りの不自由な人の介助や院内の移動の介助にも手を貸して頂いている。大変充実した総合案内に成長し、院内案内も大変スムーズになってきた。しかしその反面大変苦情も多く寄せられるようになった。中には病院の構造上に起因するものが少なく無い。例えば建て増しの繰り返しで院内は迷路化し、目的の場所への経路が分からない、案内図が不備である、その他にも建築36年を経過しているための老朽化、狭隘化に対する苦情などがある。昨年やっと外来部分を増設して内科、小児科の待ち合い室の拡張を果たし混雑の一部解消にはなったが、正面玄関のフロアーの会計や薬局の待合いの混雑が尚、解消されていない。
 当院の一日平均外来患者数は1640名、入院患者数は530名であるが、最近は超高齢患者も多くなり、付き添い人や車椅子の利用者が増加していることもあって混雑に拍車がかかっているようだ。其の上に医療時間内に入る救急車は一日平均四・七台(平成9年度実績)であり、救急対応の病院職員が行き交うために一層混乱することもあります。狭い所で只でさえ病気で気分不快なところ、長時間薬待ちをされて、イライラがつのり目の前の総合案内所につい苦情が持ち込まれることもあるようです。あるいは本年三月実施予定の全面の医薬分業が一つの解決策になるかもしれません。苦情の内容は患者接遇の悪さ、特に受け付けの対応が悪い、医師の診療態度が悪い、説明不足、待ち時間が長すぎる、騒音で呼び出しが聞こえない等が多い。これらの内容は職員会議に提案してフィードバックできるように努めていますが、なかなか苦情の件数は減らないのが現状です。粘り強い職員接遇教育を繰り返す中で厳しい職場環境と体質を作っていくしか無いであろう。しかし最近は常識では考えられない様な論拠で苦情というよりも要求に近いことを言ってくる例も目立ち気になる現象ではある。
 しかし入院患者の場合比較的この苦情が少ない気がするが、患者数の違いだけであろうか、それとも何か外来での対応と異なるものがあるのであろうか。平成10年10月の総合案内の内容をみると、(表1)のようである。受診の手続きに関するものが約46%である。問い合わせの中では目的場所が分からないための案内が一番多い。保険・事務関係では駐車券、保険証の確認に関するものが多い。案内所対応ではバラエティにとんでいるが、自動車産業が盛んを所為かブラジル人が多く、ポルトガル語、スペイン語の通訳を二名採用していることもあって、外人対応依頼が44件、車椅子・ストレッチャー介助依頼、子供・荷物一時預かりなど各13件が多いほうである。問題はこの案内所に持ち込まれる上記の様な苦情であり、十月では90件もあった。
 一方入院患者の相談コーナーとしては、医療保健福祉連携室に所属しているケースワーカー三人が担当しており、平成九年度の実績報告をみると表2のような案件を処理している。勿論入院患者の苦情は一応主治医、婦長が対応し尚解決しない場合ケースワーカーに持ち込まれる。以後はケースワーカーが中心となって時間をかけて関係者との間を調整してほとんどのケースが解決されている。しかし医療過誤が絡む場合は事務長を通じて院長の調整となる。外来部門での問題処理もケースワーカーを含めた何らかのシステムを構築する必要を感じるが、ケースワーカー自体介護保険導入を間近に控え、病院の介護支援センターの主要な要員として地域福祉の要として位置づけられつつあり、これ以上の職務を付加することは無理である。増員ともなればこの厳しい医療環境の中、患者サービス向上とはいえ保証の無いサービス要員の拡充をはかるにはかなりの勇断がいる。


「時代は、勤務医に日医加入へ意識改革を迫っている」
愛知県勤務医師生活協同組合  監事  角岡 秀彦 先生
 「開業医志向の日医に入会してもメリットが少いし、よしんば入会するにしても会費(表1)が高すぎる」と思っている勤務医は多い。それを承知で、以下、日医入会を一考いただくために、資料と私見をお示しする。
長い間、日医は医師を代表する唯一の団体と認知されている
 医師は、様々な集団に分類できる。だから、集団が大きくなればなる程、立場を異にする医師集団が増え、大同団結はより困難となる。その中にあって、長い間、日医は医師を代表する唯一の団体として認識されている。
 これを不服として、現状のままの勤務医が数(表2)を頼みに力んでも、到底、日医の代行はできない。現に、中医協委員(現在、総数20名中医師代表は5)に、全国病院団体連合が「医療費の70%・医師数の65%、患者取り扱い数の50%を占める病院群推薦の人を加えるよう」再三要望しているにもかかわらず、未だに実現されていない。その推薦母体は、あくまでも日医に限られているのである。
 余談ながら、主要な学会(九十二分科会)の総元締め(日本医学会)も、定款上、「日医の中に置く」とされていることを追記しておく。
日医は、組織率向上のため勤務医委員会を設置した
 組織率低下は、その団体の政治力弱体化をもたらす。これは、政党に限らず、日医でも労組でも然りだ。
 日医は、その組織率(日医会員数/総医師数)低下の防止策として、勤務医委員会を設置した(1983)。組織率が60%を割らんとしていた時だ。原因は、皮肉にも医師増政策にあった。新たに増えた医師の大部分が勤務医志向で、日医入会には消極的だからだ。
 かくして、現在では殆どの県に勤務医委員会(ないしは部会)が設置され、医師会はそれに相当な出費(勤務医の会費総額以上?)をしている。それでもなお、組織率は未だ満足できる数字には達していない(表2)。
 その上、心もとないことは、日医会員である勤務医の多くは、日医退会者候補の最右翼にあることだ。すなわち、彼等には、自分の意思による能動的会員は少なく所属施設が会費を負担して仕立てた会員、つまり受動的会員が多いからだ。仕立て元がなくなれば、彼等は簡単に退会するであろうことは、想像に難くない。それには、会費の額(表1。 歯科医師会費はこれより遥かに高い)も絡んでいようが、主因はむしろ勤務医に合わない日医の体質にあるからだ。
勤務医は、自らのためにも日医に加入すべきである
 日医が開業医志向であるとしても、何ら不思議ではない。彼等には、熱心な医師会活動の実績と歴史があり、高い組織率があるからだ。これには、医師会活動に無関心であったか、あるいは内向的反駁ばかりで行動しなかった勤務医にも大いに責任がある。
 しかし、今は、「開業医だ、勤務医だ」「診療所だ、病院だ」「私的だ、公的だ」と言い争っている時ではない。互いに理解し合い、大同団結して日医を強化すべきなのだ。さもなくば、官僚や保険者の思う壷である。
 このために、時間を医師会活動へさけない勤務医にできる最善の寄与は、一人でも多く日医に加入することだ。これに、医師政治連盟への援助が加われば、鬼に金棒だ。
 その結果、組織率が大幅に上がり、日医が強化されれば、勤務医に利さない筈はない。勿論、勤務医も他人任せではなく、自らも直面する諸問題や求める医療を、医師会内で、そして国政レベルで、より多く取り上げられるよう努力しなければならない。それは、また日医の体質をも改善し、日医の結束はより強化されるであろう。
 つまり、勤務医の日医加入は、己のためでもあるのだ。税制優遇措置のない勤務医にとって、医師会費や学会費は決して安くはない。しかし、時代は、その日医を専門学会と同価値におくべく、意識改革を迫っている。
「付」愛知県勤務医生協の紹介(表3)
 県勤務医生協は、本邦初の勤務医のための生協である。それは、県勤務医委員会(現勤務医部会)設立の翌年、医師会と勤務医のパイプ強化を目的に、名市医協の全面的支援を得て発足した(1984)。しかし、その後の運営も、未だ同医協にオンブにダッコの有様であり、ここに改めて、同医協に深甚なる謝意を捧げる。
 本生協の組合員資格は、医師会員である必要はなく、入会金(千円)を納めるだけで得られ、その上年会費は不要である。一人でも多くの勤務医が組合員となり、本生協の体力強化に協力願いたい。
 事業は、自動車ローン、葬儀・供花、ミリオンカードなどドクターズカー卜の加入斡旋等々であるが、主体は医協カードの発行と共済保険 (Medical Permanent Insurance ”MPI”の加入斡旋とである。因みに、今はどの保険でもメリットは減ったが、私には以前、既加入保険を全部有利なMPIに切り替えた経緯がある。
 先ずは一度、気軽に生協役員か、名市医協へ相談を試みていただきたい。



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