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【目次】
第38号 「Life is short,art is also short.」
愛知県勤務医師生活協同組合 理事   山本 \子
 先頃、大阪で開催された第27回日本「医学会総会は時間の関係で殆ど参加できなかったが、開会初日の宇沢弘文先生の社会的共通資本に関する講演を拝聴した。自分白身で日頃から何となく考えていたことが講演を聞いて整理でき大いに満足した)講演の全容はトピックとしていくつかの刊行物が出されているので省略するが、先生は、ヒポクラテスの「Life is short,art is long.」を引用され、医師の言葉であるから「art」は技術と解説され、これも社会的資本の1つと考えられておられた。
 ヒポクラテスの時代には血液検査、生理学的検査あるいは放射線学的検査もないので診断のためには専ら病歴を聴取し、身体所見を把握し、それに基づいて診断し、それに沿った治療を行っていたとすれば、彼の言う「art」は、問診法や身体診察法であり、それを基に行う診断法や治療法であると思われる。
 最近、OSCEと称して臨床実習(ポリクリ)に入る前に全身診察法のいくつかの項目を選んで習熟度をチェックする試験がなされるようになってきた。学生教育ではOSCEを受ける前に基本的診察法を講義され、加えて診察法の視覚教材が普及しており、学生は講義やビデオから得た知識で受験することになる。ポリクリでは診察法全般が必要であるが、OSCEでは極わずかしか試験ができない。問診、血圧測定、頭頸部、胸部、腹部あるいは神経学的診察など数項目のみでもこのために医学部教官15人ほどが丸1日を費やすことになる。加えて神経学的診察などはこれも数項目のみで、例えこれができたとしてもとても診断には結びつかない。
 従ってポリクリで各科のベッドサイドでの教育に期待するところが大きいが、現実には系統講義に充分な時間が取れず、実習時間を流用して講義を行う必要に迫られており、問診や.診察の一部が断片的にしか指導できない状況にある。加えて国家試験には実習に関する出題は殆どないので、学生達も講義を好む傾向にあり、基本的な検査手技を経験させるようにと言う当局の要請など紙上の空論と化している。では研修医時期にこれらの基本的な医療技術が指導されているであろうか?
 技術は、それを獲得した指導者の下でその行いを模倣する、いわゆる職人修行によって会得されるものである。しかし、今の研修病院では研修医は指導されるものというより労働力として扱われているのが現状で、良き指導者についてその診療の一部始終を観察し、模倣し、指導を受けるという状況は非常に稀である。それどころか指導者自身が多くの会議や電子カルテなどに時間をとられ、充分な問診や診察ができないのが実情であり、筆者白身も研修医や若い医局員と一緒に充分な時間をとって丁寧に患者さんを診療する機会が本当に少なくなっている。
 定年を迎えるに当たってこのままでは多くの先輩から教えて頂いた技術や知識を後進に引き継ぐことはできないと感じていた矢先に宇沢先生の講演を聴き、今のままでは「Art is also short.」と痛感した。
 団塊の世代の退職により製造業で技術の伝承ができなくなることが取り抄汰されている。物を創る業種では造った物の出来不出来が明らかで、技術の修得の程度が一目瞭然、収益にも響くので切実であろう。医療においてはかたちとして現れにくいため技術の有無の判断が難しいが、確実な技術の伝承が成されなければ、診断や治療は危ういものとなり医療に対する信頼は失われる。いや、もう既に失われつつある。
 世をあげてprimary careの重要性やgeneral physicianの必要性が声高に叫ばれているが、全ての科で指導医のレベルを上げ、技術を大切に伝承する覚悟があれば人によって理解の異なりかねない外来語を用いる必要もないと思う。そのためには退職した良き臨床医を国家レベルで活用する政策が必要と考えるが如何であろうか?
第37号 文庫本
愛知県勤務医師生活協同組合  理事 伊藤 健一先生
 一昔前の文庫本とは双六の出世上がりのように、ハードカバーの出版がある程度世間に評価され、納得できる読み物を市民に安価に提供するシステムであったはずであるが、最近はどうだろう。文庫本のための書き下ろしとか、昔発刊された文庫本を読みやすくして新装文庫本として売り出すという業界。これでは古本市場もあったものではない。新装の理由は文字が大きくなったとか、印刷が向上したとかだが、小説などの内容が変わるはずもないから、納得がいかない。出版業界も新しい生き方を模索していかなければならないのであろうか。個人の本屋はどんどん廃業していき、残るのはチェーン店のみである。
 閑話休題、タワーレコードが倒産した。音楽はレコード、テープ、CD、MD、チップメモリーと進化してその結果、音楽は買うものではなくなったのだろうか。翻って、病院という組織が簡単に潰れる時代になった。病院もチューン化したところのみが生き残る時代になったのだろうか。中堅の勤務医師は新装の文庫本のように、顔を変えて開業して行く。医師になってから数年勤めて開業する書き下ろし文庫本のような開業医もいる。今、医師のキャリアが不確定になってきている。昔あったようなベテラン勤務医師がある程度の年数を経ての開業ではなくなったになった。新しく医師になった研修医はどのような夢をもって自分の将来を思い描いているのであろうか。私白身は文庫に入れてもらえない、売れなかったハードカバー本のまま古本屋の片隅で焼却ごみと化するのを、ただ只管待つのであろうか。
 ドクターバンクという新しいサービス業が勃興している。医師不足に対して、何十万円もの広告掲載を迫る集団もある。ドクターバンクは古本市ではないと思うが、事業の成否で、これからの日本の医療の方向が定まることになるのだろう。ドクターバンクが医師のキャリアアップのツールとして、安心と安全を供給する医療の礎となって欲しいと願わずにはおられない。これらの活動も医療費といわれれば、医療者を含めて患者も少し賢くならないといけない。さもないと、結局はお金をつぎ込むだけのことになってしまう。医療にかかる費用とはそういったものを含む事務経費ではないはずである。診療報酬請求にかかる費用、医薬品を始め、物品購入にかかる費用、果てはそれらの後始末としての未収金請求にかかる費用、などなど、これら全てが医療費であるとしたら、許せないのではないか。医療費とは何かを改めて議論する必要があるように思う。医療が産業として右肩上がりであるという幻想の中で、ここにビジネスチャンスを求める集団、パイを大きくして、自分達の取り分を増やすために、蟻のように群がる集団が蠢いている。こういった医療もどきの経済行動が、医療者を疲弊させていることに誰も警鐘を鳴らさない。これらのことはもう日本では当たり前のことなのか。文庫本は今までのもので十分だと誰も発言をしないのは、誰も迷惑とは思っていないからである。しかし、医療は声に出さなければ何も変わらない。注意しないと議論の延長線上で、医療者の自由行動を縛るべく国家に医師が全て雇用されるようなことになりかねないのではないか。医療経済学者の(ご本人はそうではないと言われるかも知れないが)二木立さんがいわれるように、今の医療バッシングに対して医療者は自重しなければならない。
医療者は謙虚でなければならない。同時に医療者は論理的に、整然と、理性的に、感情に走らず、市民に直接訴えていかなければならない。日本の人口は1億強、そのうちに赤ちゃんなどを除外して意見の言える人を5,000万人としても医師が一人当たり、500人の患者さんやその家族の賛同を得れば、世論は動くと確信している。文庫本は読みやすく、持ち運びに便利で、さらにいつでも手に入るようなものであって欲しいし、医療も同じことである。
第36号 生協・勤務医部会 今昔ものがたり
愛知県勤務医師生活協同組合  専務理事 宮治 眞先生
 今はことのほか医療を取り巻く環境が厳しい。年々歳々ずっと、今は今はと繰り返し言い続けてきたような気がする。枕詞の繰り返しであるなら日常性への埋没だ。なぜなら医療に関わらず、そのときそのときが豊かである、と感じられる人は例外的な限られた人でしかない。だから今がことのほか厳しいのは、自分の生きた苦を正当化する単純な過去へのノスタルジアの言い訳でしかないのかもしれない。
 勤務医生活協同組合、医師会勤務医部会もまた同じ範疇であろう。たとえ言い訳であっても、いつでも常に苦しく、厳しいのた。組織も個人もそうやって生き延びているではないか。それにも関わらず、崩壊はある日突然やってくる。この怖さを見くびってはいけない。しかしだ、生活協同組合のMPI保険だけ?は、例外的な限られた人のみに該当するのだろうか。還付金のそのときそのときの豊かさである。「かわら版」のプロパガンダからいえば、MPI保険の加入は紛れもない豊かさだ。
 事の本質はそれで良いのかどうか。勤務医が主役であるはずの、病院が、地域医療が崩壊の危機に瀕している。勤務医生活協同組合は極めて個人的な問題であるが、医師会勤務医部会はむしろ組織的な問題である。そして少なくとも両者は今はことのほか表裏一体の関係にある。勤務医が主役であるはずの、病院が、地域医療が崩壊の危機に瀕しているなら、両者の関係は見直されるべきではないか。どっちを見直すか。生協か勤務医部会か。否、新たな止揚すべき方途を見出すべき今ではないのか。今昔ものがたりもまた同じことかもしれないが、それでもわれわれは生き延びる術をもっているはずだ。
第35号 疫病と祭
愛知県勤務医師生活協同組合  理事 鈴木 久三先生
 京都の祇園祭、大阪の天神祭、東京の神田祭を日本三大祭りという。奇しくもこれらの祭りは皆、疫病退散を目的としている。今年は山鉾巡行が日曜日にあたり念願叶って祇園祭を見る機会を得た。
 祇園祭は京都八坂神社の祭礼である。7月10日頃より四条あたりの大路、小路で鉾建がはじまる。分解保管してあった鉾を取り出し一本の釘も使わず縄で組み立てていく。前夜祭とも言うべき宵山では、これらの山鉾を見たり、山鉾の上で奏でられる祇園囃子を聞きながら京の町をそぞろ歩く。前掛、胴掛、見送といわれる山鉾の山飾りには、丸山応挙や左甚五郎作といわれるものもあり、それらを見て歩くのも楽しい。今年の宵山には実に52万人が繰り出したという。
 17日朝になると、長刀鉾を先頭として32基の山鉾が四条通りから巡行を始める。長刀鉾の上での稚児の舞、その稚児が四条通に張った縄を切る注連縄切り、予め引いたくじどおり巡行が行なわれているかを確かめるくじ改め、山鉾巡行の見所はいくつもあるが、勇壮なのは辻回しである。山鉾の車輪の向きは固定されているので容易には曲がれない。方向転換のためには割った竹を車輪のそばに敷き詰め水を打つ。10人ほどで曲がる方に強引に引っ張り山鉾ごと方向を変えるのである。巡行が終わり鉾町に戻ってきたらこれらの山鉾は即刻解体され片付けられる。山や鉾は疫病を引き寄せるので早く片付けないとますます疫病が流行するといわれるからである。祇園祭といえば宵山や山鉾巡行と思われるほど山鉾が有名であるが、神事の中心はおみこしである。17日夕方、八坂神社を出発した御輿は市内を練りまわして四条御旅所に入る。御旅所では芸能などさまざまな手向けを受け24日夕に八坂神社に帰る。
 祇園祭は、平安時代初期、都を中心に全国的に疫病が流行したとき、疫病退散の神事を行なったことに始まる。疫病をもたらすのは横死した怨霊や遠い異国からやってきた疫神の仕業と考えられた。怨霊は、憤死した桓武天皇の弟、早良親王をはじめとする六所の御霊である。(ちなみに、天神祭は菅原道真を、神田祭は平将門を祭神としている。)祇園祭は、そういった御霊をもてなし、満足して立ち去っていただくことを願っての祭りである。872年には京中に「咳逆病」が流行し多数の死者を出し、974年には痘瘡が流行したことが知られている。しかし、時代を経るにつれ疫神は鎮送するものから、とどまって自分たちを守っていただく神の形に変化していく。
 人が集まり都市ができると疫病がしばしば流行し、人々を恐怖に陥れる。伝染病の本質が分っていない平安時代にあっては、それを横死した怨霊や外来の疫神によるものと考えこれを鎮送するために祭りを行った。それが祇園祭であり、天神祭であり、神田祭である。サイエンスとしての医学が進んだ現代、疫病退散の目的はなくなったが、それでもこれらの祭りがこれだけの人々をひきつけるのはなぜであろうか。そこに、現代のわれわれが見失っているものがあるような気がしてならない。
       (参考文献;中世京都と祇園祭、脇田晴子著、中央公論新社刊)
第34号 鈴虫考
愛知県勤務医師生活協同組合  理事 岩井 克殷先生
 夏に鳴く虫の代表といえば鈴虫であろう。直翅目こうろぎ科、学名Homoeogryllusjaponicus(de Haan)、ヤポニク
スというからには日本固有種であろうが、実際の分布は北海道を除く日本全土と、台湾、中国である。体長約20ミリ暗褐色、触角は細くて非常に長い、雄は翅を擦り合せてリーンリーンと鳴く。最近は鈴虫の音色を自然の中で聞くことは難しく、捕まえる虫から、飼う(買う)虫になっている。
 拙宅には4年前に知人から数匹、小さな虫カゴに入れていただいてから、その子孫が代々生き続けている。今は飼育箱の土の中で静かに孵化を待っている。昨年は6月初旬から孵化が始まり、無数という程沢山生まれた。その処置に困り、虫カゴ・エサ付で職員の何人かに引き取ってもらった。これから夏に向かって「鈴虫」を育て、庭に放って美しい音色を聴きながら夕涼みを楽しむ。毎年今の時期そんな光景を空想するのだが、現存の勤務状態ではそんな余裕は全くない。
 医師不足が叫ばれて久しいが、その激務は限界を越えている。過重労働とストレスの重責、臨床現場は疲れ切った医師達でようやく支えられている。どうしたら勤務医に明るい未来が開けるのか、ただ頑張れ、頑張れだけでは何れドロップアウトして、開業を考える医師も出るだろう。今年も鈴虫の音色を聴きながら、悩ましい夜が来そうである。
 鈴虫の孵化の条件は気温が25℃以上、湿度80%以上で始まる。孵化すると炭(備長炭)を入れてやる。炭は湿度調節や消臭効果もありいい素材である。エサは、ナスとキュウリを串刺しにして、地面に接しないように立ててやる。粉末のエサはタンパク質が多い鰹節や煮干がいい、なるべく毎日交換する。2日に1回水(ミネラルウオーター)を土(園芸用赤玉土)や炭に噴霧する。
 こうして育てると、鈴虫は1週間に一度脱皮を繰り返し、7回脱皮して成虫になる。最後の脱皮(羽化)で翅が現れる。後翅は退化して小さい為、飛ぶことはできない。オスはその後鳴き易いように、後翅を自分で落とし前翅を擦り合せ、リーンリーンと美しい音色を出すのである。
 鈴虫の世界にも序列があり、リーダー格は備長炭の先端で鳴いている。炭の棒の途中で鳴いているもの、地上で鳴くものもいる。ときどき、造反が起こりリーダーが代わることがある。リーダーが鳴き出すと、つれ鳴きといって、一斉に鳴き出す。メスが近くにいるとラブソングを長時間続けるようだ。じっと観察していると、なかなか興味ある世界を垣間見ることができる。
 秋になると交尾が始まり産卵する。1回の産卵で100個前後の卵を産む。交尾を終えるとオスは急速に体力が衰え、メスの餌食になり、最後はメスだけになる。見たくない世界である。やがてメスもその一生を終え、卵だけが永い冬眠に入るのである。
第33号 地域医療について
愛知県勤務医師生活協同組合  理事 伊藤 健一先生
 医療に地域医療と中央(核)医療があるということ自体、どこで、誰が、何を基準として区別しているのか、その言葉の定義を筆者は寡聞にして知らない。医療の質に地方と中央に差があってはならないと私は日頃考えている。これは憲法第25条を紐解くまでもなく、当たり前のことではないか。しかしながら、現実に地域格差が存在し、日本の医療の美点の一つであるフリーアクセスが実際に存在しているとはいえない状況である。いまあるフリーアクセスは保険証一枚でどこにでも受診することは可能であるが、その質の保障(受診のタイミングを含めて)は残念ながら無いといっても過言ではない。現在の医療の歪は医療提供側と受療側とのまさに期待の差、意識の差である。当然のことながら地域には高齢者医療、救急医療、小児医療、ターミナル医療が重くのしかかっており、都市型医療では考えられないマンパワーの不足に全医療機関が喘いでいる。ここで都市への人口集中の弊害を例に出す必要はないであろう。定義として地域医療は地方医療の問題であり、都市型医療とはその間題の本質を異にする。なぜならば、都市における医療マンパワーは実行する、しないは別として地方とは比較にならないほど潤沢である。マスコミは都市型医療の問題(例えば救急医療)は殊更に報道するが地方の問題については極めて冷淡である。現在の医療資源の不足に 対して地方(この場合、本来の意味での地域医療)はどう対応することができるのか。
 今、北海道から提出された特区申請に注目が集まっている。北海道の各地方自治体が持っている町村立の病院を診療所に改め、少なくとも200床程度の病院に二次医療を集中させるという案である。このために現行の医療計画にある病床規制をクリアするための特区申請である。頭でわかっても各自治体にはそれぞれの思惑があり、総論賛成、各論反対ということになりかねない。しかしながら、それぞれが面子に拘って医療を提供できる余裕はどこを探してももうないのである。これらの50床程度の小病院の乱立を維持する費用と、道路、航空等のアクセスを良くして集中した医療の受けることのできる環境に如何に早く到達できるかの議論がより重要ではないかと考える。そのためにも少なくともドクターヘリが現状では日没後は飛ばないとか、道路には着陸できないとかいった規制の緩和も併せて議論をする必要があるのではないか。病院を閉じ、病床を減らすことだけの議論で、その代替案の作成を同時にできない現在の縦割り官僚機構に、問題の大きな部分があるようにも思う。
 この文章を幾人の一般人が目を通すか不明であるが、われわれ医療関係者が傷を舐めあい、嘆息するだけでは物事は進まない。一人ひとりの病院勤務医師が一人ひとりの患者に丁寧に接し、現状を訴え、理解してもらう他はないであろう。地域医療改革に必要なものは今更ながら、人、物、金であり、これらが限られている現在は供給される医療サービスに制限を受けることがあると患者側に訴え、理解をしてもらう努力をしなければならない。
第32号 3つの事件にみる最近の日本社会の風潮について
愛知県勤務医師生活協同組合  理事 木田 義久先生
 最近の日本社会の風潮を象徴する3つの出来事について述べてみたいと思います。1つ目は社会保険庁がテレビコマーシャルに起用した某女優さんが長年にわたって国民年金の保険料の支払いをしていなかったことです。国会に喚問すべきであるとか、記者会見においてはメディアから詰問されるなど大変気の毒な事でした。保険料を支払っていない女優さんをかってに調べもせず使ってしまった社会保険庁の失策ではあっても、きわめて多くの人々が保険料を支払っていない現状のなかで、その1人としての女優さんが責められるというのはなにかおかしいことではないでしょうか。
 2つ目の事件は京都の鶏飼育業者が、鳥インフルエンザの大量発生をかくして報告を怠ったと非難されたことです。この会長夫妻が後日首吊り自殺して亡くなるという大変悲惨な結末となりました。思うに鳥インフルエンザは確かに大量発生したものの、日本において人への感染は発生せず、ましてや人の死亡が国内で報告されてはいないのであって、この会長夫妻の2人だけが鳥インフルエンザ騒動の犠牲者となったわけです。この件についても社会的に、あるいはありとあらゆるメディアからの攻撃を受けていたわけであり、ある意味で大変気の毒というほかはありません。
 3つ目はイラクにおける日本の民間人3人の人質事件でしょう。微妙な立場にある自衛隊、日本政府が懸命にその救助活動を秘密裏に展開したことは想像するに難くありません。しかしいざ助けられてみると、こんどは自己責任、自己責任の大合唱となり、助けられた3人は喜びも束の間で、大変な非難ごうごうのなか日本に帰ることとなりました。自衛隊派遣を推進してきた政府、自民党が自己責任を順次反復したのはいかにも話のすり替え、すなわち自衛隊を派遣したことで事件が起きたとの非難を避けることをねらった単純なキャンペーンに過ぎないものと思いましたが、メディアにおける自己責任の大合唱はいかがなものでしょうか。
 これらの3つの事件に共通していることは、いかようにもいろいろな見方があって然るべき事が、1つの一方的意見のみに集約され、かつこれがメディアを通して流れる事で、なぜか揺るぎない世論であるかのように喧伝されたことではないでしょうか。またこれをうけて国民もまた、ごく単純にこいつが悪い、これが悪の根源に間違いないと思い込んでしまうという悪しき風潮ではないでしょうか。3つの事件にからんだ人々がすべて正しいなどとはいいませんが、物事にはいろんな見方があっていっこうにかまわないと思いますし、またそうでないと松本サリン事件のようなとんでもない間違いをおかすこともあるでしょう。こうした世論形成におけるメディアの役割はきわめて重要です。
私たちに真に必要であるのは、かってに判断されてしまった事実ではなく、判断するために必要な真の事実を伝えてはしいという事でしょう。そうした事実を知って判断をくだすのはまさに私たちでなければならないわけですから。ちなみに(1)については現内閣閣僚の数人に加え多くの国会議員にやはり保険料の未払いが発覚したことにより、女優さんへの非難は消滅し、(2)は鳥インフルエンザの終息に加え社長さんが起訴されることとなり、また(3)については海外から、非難したことを非難されるにおよんで大合唱は止んでしまったことを付記しておきます。
第31号 来年のNHK大河ドラマ「新撰組」は期待できるか?できないか?
愛知県勤務医師生活協同組合  理事 近藤 成彦先生
 皆さまは毎週日曜日の夜8時からのNHKの大河ドラマはご覧になっているでしょうか。私は毎年楽しみに観るようにしているのですが、今年の「武蔵」は画面や色彩は綺麗ですが重厚感に乏しく残念に思いつつ観ています。
 私たちの世代はやはり内田吐夢監督、中村錦之助主演で昭和36年から5年にわたり毎年1作ずつ製作された映画「宮本武蔵」の印象が強いせいかもしれません。
 昨年の「利家とまつ」も面白かったのですが、戦国時代に女性の立場や発言があれほど強いとも思えず、最後まで違和感を抱きつつ観ていました。
 さて来年は「新選組」とのことで、早速、下母渾寛の「新選組始末記」と司馬遼太郎の「新選組血風録」、さらに堂門冬二の「新撰組」(物語と史蹟をたずねて)を購入して読み始めました。
 新選組といえば「池田屋騒動」をすぐ思い出しますが、あの殺我の感じは私にはどうしても理解できません。「天誅」の名のもとに主義主張が違うだけであれだけバッタバッタと人を切ったり殺したりできるものでしょうか。また何かして失敗するとすぐ「切腹」を命じられて、あんなにも簡単に自ら命を絶つことができたのでしょうか。大河ドラマでそのあたりがどのように描かれるのか興味深いところです。
 さて近藤勇も養父の周助も祖父の方昌も養子ですがあの武州の剣術道場の近藤家と私の近藤家とはなんら関係ありません。わが近藤家は祖父の代までは三重県員弁郡に在住して代々農業をしてきましたので。 配役としては局長・近藤勇役はSMAPの香取慎吾さん、副長の土方歳三役は俳優の藤原竜也さんとのことです。是非面白いことを期待したいものです。
第30号 少子高齢化
愛知県勤務医師生活協同組合  専務理事 宮治 眞先生
 なにごとに対しても枕詞のように使われる少子高齢化である。医療の一線でも日々ひしひしと実感している高齢社会であろう。その一方で、小児医療の現場の多忙さというか、めまぐるしさは、半端ではない。もちろん需要と供給のアンバランスといってしまえばそれまでだが、少子という割には違和感がある。
 かつて学生時代の小児科学の試験は「小児は大人の縮図ではない」これを医学的に説明せよ、だった。専門外ではあるが、いまの小児は大人の縮図のような病気があまりに多いのではないか。時代が変わって小児がませてしまったのだろうか。でも大人のはしか、アトピー性皮膚炎、若い人のA型肝炎などを経験させられると、大人も子供も清潔な環境に負けてしまって、みんなどんどんひ弱になって、どんどん長生きしている、自己矛盾に陥っているように思えてならない。少子高齢化の医学的な源流のようにみえる。
 御上は生めよ増やせよとばかりに、不妊治療をはじめ、あの手この手の支援を始めている。挙児希望の強さを否定する気はないが、なんだか子供を授かることが、あまりにも人工的になりすぎているように思える。御上がやるにしては余計なお節介といわざるをえない。事の本質は子供がいてもいなくても、老いてもなおしっかりと暮らせる社会の仕組みが必要なはずだ。
 それにもかかわらず、世紀末に10年間で出生率が半減したという人類史上の初体験は、小児も大人も価値観の変質を伴わずにはおれないだろう。多分、現状の感覚を越えた社会だろう。単に子供が少なく、高齢人口が増えるということではなく、社会の仕組みそのものが変質することといえよう。着るもの、食べるもの、住むところから始まって、保健、医療、福祉に至るまで、世相はガラッと変わるはずだ。枕詞としての少子高齢化は有用せず、そのためのパラダイムシフトがいまこそ求められている気がしてならない。
第29号 医療雑感
愛知県勤務医師生活協同組合  理事 伊藤 健一先生
 毎日出勤しての日課は、先ず新聞5紙を読むことである。時間に追われていることもあるが、自分の身を置いている医業界の記事を無意識に探している。昨今の医療に対する市民の目は厳しい。一体何故そうなってしまったのか。気がついたら医療は兵糧攻めにあっている上に、水攻めを受けているような状態である。以前は私を含めて医師は毅然とした態度でやるべきことをやっておればよいという意識をもっていたと思う。いろんな分野で失われた10年と言われるが、この間にやるべきことをやらない医師が出てきたことも現在の医療に対する不信感を醸成するに十分な時間であったに違いない。
医師の質と量の確保が焦眉の急である。愛知県は医師数が全国平均に比べて10万人当たり20人以上少ない。数にして1,400以上少ないのである。この事に対して本来は医療行政、医療における政治が意味を持つと思うのであるが、こういった点での動きは見えてこない。また、マスコミの記事にしばしば登場する、不可解で無理解な事柄に対しては何らかの対応が医療界としてあるいは医師として必要ではないだろうか。医療者の行動、考えが理解されていない、という状態を放置してきた責任は我々にあることは言うまでもない。医師の過酷な勤務実態、決して高いとはいえない勤務医師の生涯賃金、医師という身分の不確定さ等々。医師以外の人といろいろ、お話すると「へえー、本当ですか。」と言いながら「うそでしょう!?先生。」と私の顔を斜めにみる相手に対して根気よく話すことがまた極めて労力のいる作業と気が付くのである。しかし、人のために役立ちたいとして医療を純粋に目指す
子供たち、医学生、若手医師に対する責任として我々は話続ける義務がある。ハインリヒの法則ではないけれど、一人一人の医師が10人の周りの人や患者さんに話し続けることも決して無駄な作業ではないと思うが如何であろうか。
第28号 我々日本人は教育によるクローン人間か
愛知県勤務医師生活協同組合  理事 近藤 照夫先生
 1997年、クローン羊・ドリーが誕生し世間をあっと驚かせたが、今年に入りイタリア人医師が人間にクローン技術を応用し妊娠させ、クローン人間誕生の可能性があると報道された。そして、クローン人間を風刺する狂言まで登場している。
 クローン動物は遺伝子上の問題がまだ解決されていない部分があるだけでなく、更なる大事は一定の刺激に対して同一に反応する可能性が大きいことである。環境に対して依存性が高く、環境に対する反応はall or nothingとなる。すなわち、順風の時は大躍進するかも知れないが、逆境の時は潰滅する可能性が大きい。多様性がないと種は保持できなくなることがある。
 日本社会は元来、単一民族、単一言語等により価値観の多様性が小さく、同質、均質社会と云われている。戦前の軍国主義時代ならいざ知らず、戦後、民主主義社会に変わっても日本の教育は差異を認めず、すべて差別と見倣した。民主主義は個の多様性を認めた上、個を公平、平等に扱うようにするシステムのはずだが、個の多様性を認めない社会なら、それは平等を主張する以前の状態である。
最近は個性ある教育をと謳っているが、これまでの教育は画一的であったと思われる。ひょっとすると我々は、教育によるクローン人間になっているのかと考えさせられる。教育によるクローン人間化で、バブルの時代はすべてが「イケイケ」ムードで突っ走り、止めを知らない社会となり、現在のこの多難な時代には多様な回答が出せず、過去の方法のみで対応している。そのため日本はこのまま苦境から脱却できないのではないかと心配している。
第27号 主役は先生、あなた自身なのですが・・
愛知県勤務医師生活協同組合  専務理事 宮治 眞先生
 手元に全医協連ニュース30(1988.7.1)盛夏号がある。そこには全国に先駆けて愛知県勤務医師生活協同組合を設立した経緯とその後の報告がある。今は亡き小田博先生の筆である。組合員451名で発足(1984.8.23)した経緯とともに、MPI(Medical Permanent Insurance)という年金を加味した一時払退職後終身保険(大型グループ共済保険)の加入斡旋と促進を第1の目標として掲げてある。
 設立から約17年。当初から関わった一人としては感慨無量である。この間、幾多の紆余曲折を経験した。私の直属の後輩の死に際しては、筆舌を越える悲しみを味わったし、スキーで骨折をした後輩には、若干の皮肉を込めれば、ささやかなお小遣いを支払ったと思った一方で、協栄生命保険会社の倒産に際しては、たった2週間の差でもって間に合わず、肝を潰した。
 後輩の死は「若すぎる死」としてこの「かわら版19号」(1997.11.1)にも書いた。不幸中の幸といえば、このMPIに加入することを勧めた先輩としては、彼の人生に幾ばくかの配慮をしたのか、と自らを慰めて納得した。骨折の後輩には脂肪塞栓症の恐れに戦きながらも、えらい臨時収入をもたらしたものだ、と痛みを無視して羨んだ。責任者として倒産を知った時、全財産を放り出してなお足りるか、一家心中か、と真面目に考えた。保険という金融の怖さを身を持って実感した。
 こうして振り返ってみると、生協、MPIの加入を含めて、結局はなにもかもが自己責任。古い言葉でいえば「連帯を求めて孤立を恐れず」。この共同連帯は勤務医という自己責任の上に成立させて、可能なかぎりの優遇策を講じている。しかし一方、最近は支払いを滞らせる会員がいるが、これは紆余曲折の範疇を越える。無念というより、生協への破壊行為であり、テロにすらなりかねない。どうか老いたための健忘であってほしい。
 3年後には創立20周年を迎える。生き延びていけるのか、衰退への道を歩むのか。右の表を前に、考え込む日々である。主役は先生、あなた自身なのですが・・・
第25号 定年哀愁
愛知県勤務医師生活協同組合  理事 田邉 克彦先生
 バブルがはじけ、不況風が吹き出して会社倒産、リストラに銀行までが倒れだし不況対策マンネリ化、こいつはいつまで続くやら。
 世の中それにつれ、おかしな方へと向ってる。失業率は4.7%、金利はほとんど0となり、自分勝手が横行し凶悪犯罪急増加、特に若者の殺人だけは元気良し。
 本年は20世紀の最後とて末世の感もこれありき。ホームレス、ガングロ、ジベタリアンの若者と、これ等を見るにつけ、その感もっともなるかなと。あ、情無や〜。
 私事になるけれど、還暦過ぎて数年の、無責任にも「わしはあとは死んで行くのみぞ、君達若者かわいそう」などと、酔って宣っておれば少しはウサは晴れるけど、若者達はかわいそう。
 60才の前後より高校時代の友人やこれまで親しくなった方々の定年、リタイヤの報多くして再就職をしている者は数少し。会うと彼等は皆々に悠々自適と云う。けれどまだまだ若く、どこか話もちぐはぐに身の置き所無き様子。彼等が我に語るには、医者には定年無くてうらやまし、勤務医は定年ありと云うけれど失業している医者に会った事はないとおっしゃる。その通り、勤務医は定年ありしも医者には定年無く、今まではその後も何なりか医者の仕事を続けているのがほとんどか。それでもこれからどうなるか。医者の数は増え続け、病院は経営難で定員増などもっての外となっている。そしてポストはつまって高齢化。さてどうなる。
 勤務医辞めてもそのあとは、開業するにも歳も歳、金も無ければ地所も無し、その上、今の状況はうまく行くとは限らない。さてさてこの先わからない。まあ、ここはすっぱり観念し、退職後には年金、生保をあてにして全てこの世は諦めて悠々自適を装って竹林の愚者となりますか。
 これをお読みの勤務医の方々よ、愚者の言は無視をして21世紀になったら希望の持てる世の中に変って行くと信じつつ、未来の事も考えて現世をしっかり着実にやってくれると願ってる。MPIもよいかもよ。

老いのたわ言、酔いの中、秋の夜風に吹かれつつ
秋の風 酒は辛口 ほろ苦い  酔猿
第24号 ミレニアムと勤務医
愛知県勤務医師生活協同組合  前理事長 六鹿 直視先生
 最近数年間のかわら版の冒頭に景気に関する書き出しが多いことは長引く不況を物語っている。失業率が上昇し、賃金の減少により保険料収入が頭落ちになり、老人保健への拠出金は増加し続け、保険組合を解散し、政府管掌組合に移行するところも出て来ており日本の医療保険制度は崩壊の一歩手前まで来ている様に思われる。我々勤務医が置かれている立場は安泰ではありません。金融ビッグバンの影響は保険会社の破綻を引き起こしており我々の主な事業である共済MPI委託生命保険会社の一つである東邦生命が破綻してしまいました。幸いにも加入者に被害は及びませんんでした。結果として組合員が加入出来る生命保険会社は4社になってしまいましたが健全な保険会社として云うことで、安心してご加入いただけます。
 総医療費の伸び悩みの状況の中、国立病院が独人行政法人化と統廃合を決定し、自治体病院も統廃合が検討されているが、一つの目的は病院経常を圧迫している人件費削減であり結果として起こることはリストラである。不用なベッド数の削減は必要であるが夫々の地域での必要病床数に見合った削減をすべきである。それには色々な議論もあると思われるが急性期一般、慢性期一般、療養型病床に分けて必要病床数の調査を早急にすべきである。市民病院等の公立病院は市長の公約により設立されるものが多く地域によっては不均衡な病床数配分の所もあ県病院統廃合の前に夫々の必要病床数を調査すべきである。第4次医療法の早期改定が望まれる。
 最近勤務医を脅かすものは医療事故の頻発である。医師の7割が勤務医である為比率から云っても勤務医の関わりが多くなる。大きな事故は突然に発生するものではなく、小さな事故が集まりある数に達すると発生する法則があります。一般論であるが、小さい事故を虱潰しにしていけば大事故は予防出来ることになる。ヒヤリハット報告を義務づけて、リスクマネージメントに心がけている病院も多くなっている。チームワークを良くして事故防止に努めたいものである。
第23号 医協カードって何だ?
愛知県勤務医師生活協同組合  理事 早川 富博先生
 今年10月から医協カードが更新されました。どのように?
 今までの医協カードは提携する加盟店舗での買い物するときに得をするだけであったものが、何とミリオンカード・VISAに組み込まれ、internationalになります。今まで名古屋の250店舗でしか効力のなかったものが、これで世界中の1600万店舗で医協カードが使用可能となります。しかも利用料金(紛失保険料:1250円/年)が2年間無料です。
 私もアメックス、ミリオンカードを持っていましたが、ほとんど使わない(面倒で使わないのと、良く解らないでの使えない)ので、利用料金の高いアメックスは2年前に解約し、今回、強力になった医協カード一本にしました。財布の厚さが薄くなりました。
 面倒で待つことが出来ない私は、支払いをカードですることはほとんどありません。カードをエンボスされて、チェックされてサインする、この手続きにかかる時間にイライラします。サインの下手な字を他人にみられるのはもっとイヤです。ただ唯一使用するのは映画を観る時です。映画館ではXISAやミリオンカードを持っていると割引してくれるところがあります。チケットを買う窓口をよく見ると掲示がしてあります。何と1800円が1600円になります。今はやりの郊外の集合型映画館ではよくあるようです。
 デパートやスーパーの顧客をターゲットとしたカードが氾濫し、多くのカードを持っているのがステイタスのように感じる時代でした。経済成長がゼロに近いこれからは今までのカードが統合されるようになるでしょう。
 では何で医協カードか。一般的なクレジットカード(ミリオンカード・VISA)利用にプラス勤務医生協と提携している店舗での割引がされて、しかも2年間無料。医協カードをよく見ると、ECG波形が可愛いじゃないですか!しかもかっこよく、Doctor’s Card!医師としてのプライドを刺激しませんか?
第22号 勤務医の立場は安全か
愛知県勤務医師生活協同組合  理事 木田 義久先生
 一向に景気の回復がみられないこのごろ、倒産、リストラ、解雇など、暗いニュースばかりが新聞、テレビ等から流れます。私も大学を卒業してすでに25年をこえ、最近おなじ軟式テニスクラブ(現在ではソフトテニスと言うそうですが)に所属した、他学部の同輩諸氏と久万ぶりに会う機会がありました。びっくりしたことは彼等の苦労の多さでしょうか。転勤はもちろん、出向、転職、はては失業もあり、とくに女性陣にとっては苦難の連続のように映ります。しかしさらにびっくりするのは、彼等、彼女らのなんともしたたかな対応でしょうか。お年寄りの介護に情熱をかたむけたり、女性の権利拡大に奮戦し、執筆活動を展開する同輩もいました。どっこい負けてたまるかの軟式テニス魂でふんばっていて、一向めげた様子もありません。私にとっても勇気を奮い立たせるに、十分な1日でありました。
 こうした”一般社会 に比べ、私達医者の世界では,なんとなく職場も、収入もそれなりに確保されていて、なんとあまいことでしょうか。しかし勤務医の御同輩、どの病院においても、経営の改善が叫ばれ、医療費の論議の喧しい中、はたして勤務医の将来は本当に安全といえるのでしょうか。安定したギルド的雇用は将来とも約束されているのでしょうか。最近の経営改善といえば、まさにリストラ、人員削減が代名詞ともなっているわけであり、勤務医とても安全ではありません。ましてやひとたび病気にでもなろうものなら生活さえ脅かされる事態となるのではないでしょうか。こんな時、病院がかならず私達を守ってくれるものと期待することは、たいへんむつかしくなっていくとおもわれますし、あるいは幻想というべきかもしれません。こうした事態にいかに対応するのか、平素おもいをめぐらせておくことが肝要でしょう。まさに、勤務医も、しっかりしたたかになれるよう、準備と勉強が必要なこのごろではないでしょうか。
第21号「キャッシュレス時代の到来」”カードの紛失、盗難にご用心!”
愛知県勤務医師生活協同組合  理事 吉田  孝先生
 景気の低迷から消費経済の落ち込みを招き、我々庶民の財布の紐が固く締められている時にはふさわしくない話題かもしれないが、医協カードも来年の平成11年10月から更新期を迎えるため、「一般」用のクレジットカードのうち、VISA又はミリオンカードに組み込まれ、しかもインターナショナル使用可能なカードに生まれ変わる。
 一方、割引可能な加盟店舗は、およそ250店舗、割引率5%〜30%である。(例、松坂屋、丸栄、三越、名鉄の4デパートは5%引き)
 この恩典はそのまま継続されるであろうし、むしろ、加盟店数は増えると思われる。
 この付加価値の増加で、平成10年9月16日現在の医協カード発行数は1,629枚に過ぎないが、発行数も利用度数も飛躍的な増加が見込まれる。一方、利用回数が増えれば増えるほど、紛失や盗難といった事故も増えると思われる。事故に対して現在の医協カードも保険が掛けられていて、届け出日から60日前まで、総額300万円までは保証されている。現在まで紛失届は年間10〜15件出されるが、幸い、事故になったものは無いようだ。
 新カードでは、保証額は400万円に増額され、1回使用限度額は80万円となる予定。保険金額は年会費から支払われるが、2年間は免除の予定である。事故に会った場合、速やかに勤務医生協に連絡すれば、(盗難に会った場合はまず警察に届けるのが望ましいが、)全国ネットワークで端末に事故が通報され、不正使用が未然に防止される。
 ただ、服のポケットや、セカンドバッグの片隅に入れておいて、何時の間にか、落としたり、盗られたりした場合、それがウッカリ気付かない内に60日を越えて経過してしまった時、不幸にも、不正使用されれば、その損害額は保証されないので、常日頃からカードのチェックをお忘れなく!
 また、案外忘れがちな事に、クレジットカードを使用して物品を購入された場合、その物品が皆さんの手元に届くまでに破損、紛失が起こった時、その損害も補償されるという特典があることだ。
 サァ、医協カードを持って、ショッピングにでも出かけようカナ!
 国民の一人として、消費の落ち込みを少しでも救おう!
 デモ、預金残高は大丈夫だったカナ?
第20号 勤務医の大きな輪を広げよう!
愛知県勤務医師生活協同組合  理事 安藤  恒三郎先生
 愛知県勤務医師生活協同組合(勤務医生協)は愛知県医師会勤務医部会を母体として設立され、今年は16年目を迎えます。また、このかわら版の発行も20号の節目を迎えます。まさに小児から成人への移行期といえます。勤務医生協は心身ともに成熟した成人に成長したでしょうか?
 勤務医生協では、勤務医のための福利厚生事業として、勤務医のための生命(年金)保険であるMPI保険、ホテル、レストランなど多くの加盟店で割引利用ができる医協カード、ダイレクトメールでのカタログ商品販売など3つの事業を行っております。組合員数は、平成10年4月現在1654名(勤務医数の25%)で、この1年間に4名しか増えておりません。毎年、愛知県下の各病院に400名の若手医師がわれわれ勤務医の仲間になってくれますが、わずか1%の入会率では勤務医生協は病人といわざるをえません。ではその原因は何なのでしょうか、治療法はあるのでしょうか?
 勤務医生協の存在すら知らない勤務医が多数みられることから、積極的に広報活動を展開することが必要でしょう。組合員一人一人が周りの医師に呼びかけていくことが重要かと思います。また、多くの若手勤務医は診療行為には積極的ですが、診療行為以外の医師会活動などには無関心といわれています。したがって、特に若手勤務医に対して勤務医生協の意義を積極的に説明し、入会を働きかける必要があると思います。
 最近の医療行政をみていると、診療報酬の面でも明らかに政策誘導と考えられる点数改正が行われており、これらのことは勤務医が行う医療にとっても避けて通れない問題となります。勤務医の意見を行政に反映させるためにも、勤務医自身が医療行政に関心を持ち団結する必要があるのではないでしょうか。
 勤務医生協への加入は医師会への加入を前提としておりません。入会時のわずか1000円の出資金で加入できます。さあ、これからでも間に合います。みんなで勤務医の大きな輪を広げましょう。



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